私は物質主義の世の中で窶れ果て、森の隠者となったと言っても過言ではない。人間とは何か、どう生きるべきかを問いながら、二十代はずっと砂漠を放浪していた。砂漠で斃れ、枯れ果てることによって、現代人として養われてきた物質主義観が、完全に死滅することを心の底で待ち望んでいたのだ。ずっと夢見ていたのは、魂の賦活である。人間を人間たらしめる焔であり、闇夜に灯された月明り、大地に注がれる力強い太陽である。
今年の夏から、農家で働いている。人との距離が近く、畑で働くことはとても気持ちがいい。だが、ここ最近、どうも疲弊する。その理由を問うてみると、ここにも物質主義が影を潜めているからであった。
最近、クロルピクリンという農薬の話を聞いた。ホウレンソウを栽培するために、土壌中の菌を殺すのだという。主人の話を聞いていると、これは世界大戦のときに化学兵器として使われたことがあるらしい。実際、自分で撒くにしてもかなりきつく、目まで覆われるガスマスクみたいなものを着けてやるのだと言う。土壌に散布した後、ビニールを被せて燻蒸させる。これにより、土壌中の菌はことごとく死滅し、作物は安定するらしい。
農薬とは姿形を変えた、化学兵器と言えるだろうか。ホロコーストで使われた毒ガスも、チクロンBという殺虫剤であった。こうした、自然を破壊する化学物質は、今日も日常的に使われている。たしかに、農家の気持ちは痛いほどわかる。農薬を使わないと、野菜が既定の大きさや形に育たなかったり、虫食いや腐りが発生したりして、商品として安定せず、納品ができなければ収入も見込めない。無論、農薬を使ったからといって、必ずしも野菜の収穫が安定するわけでもない。これは働いてみて、よく分かった。無農薬野菜に幻想を抱くが、金を得るにはこのやり方がいちばん効率的であり、自然を犠牲にする道をとらざるをえないのである。
生業を語るとき、食っていけるか食っていけぬか、という言葉を使う。だが”食っていける”とはどこまでを言うのだろう。所帯を持たぬこともあるが、月一万に満たない金で、玄米と野菜のスープを私は食っていける。まわりの人間に比べたら貧相な食事だが、戦時中の人間を思えば、十分すぎるほど恵まれた食事であるし、実際、毎日腹いっぱい米が食えて幸せだ。農薬を使わなければ、農家は食っていけなくなり、食料も安定しなくなるという。だがそれは本当だろうか。いったいおれたちには、どれだけの金が必要なんだろう。
2024.9.19
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