「その猪の肉ない、裏の物置に吊るしておいたんだわい。まだいっぺ吊るしてあっぞい」
「へーえ。たまげたなあ。どうして腐んなかったんだろう?」
「わげね。腐んねえようにしてあんだ。ぶづ切りした肉に塩まぶしてない、それを縄できつく縛ってからよ、囲炉裏の天井に吊るしておくんだわい。そうすっと、ほら、煙で燻されっぺ。三ヶ月ぐれい吊るしておけばあとは大丈夫なんだ」
小泉武夫「猟師の肉は腐らない」
北海道をヒッチハイクで横断していたとき、ケイイチさんという男に会った。われわれはケイイチさんに近くの山へ連れられ、釣りを見せてもらった。ケイイチさんが渓流に竿を投げ入れると、ものの5秒で魚がかかった。大自然に息する新鮮なイワナである。われわれは川を下りながら、つぎつぎとイワナを釣りあげていった。ケイイチさんは、その辺に生えている笹を一本ポキリと折ると、釣った魚のエラから口へ笹の茎を通し、束にして持ち運べるようにした。十匹近く釣っただろうか。われわれは区切りをつけ、ケイイチさんの家にお邪魔すると、釣ったばかりのイワナの刺身と、焼き魚をいただいた。新鮮でぷりぷりで大変な美味であったのは言うまでもなく、せこせこした釣り堀とはちがう、大自然の豪快さ、気前の良さというものにひたすら感服したのだった。
自然は豪快で気前がいい。ゆえに、大自然に身を委ねるほど豪快な生き方にはなるまいか。スーパーでは、100gの豚肉が肩ロースで250円、バラで150円、こまぎれで130円くらいで売っている。財布と相談しながら、なるべくいい肉を買おうとするが、でかい猪一匹とってしまえば、その瞬間100キロの肉が手に入る。隣人に好きなだけ振る舞えるし、食いきれない分は吊るして燻せば保存がきく。よく畑をやっている家の軒下でも、何十個の玉ねぎが並べて吊るされていたりする。余すことなく大切に手入れし、綺麗に整列している様はまことに圧巻である。
そうした自然の気前のよさに心を躍らす一方で、ついに米屋に行っても米がなく、私は日本精神の源泉である米を失った。この調子では、新米が入荷してもすぐに売れ切れるだろうし、しばらく米のない生活がつづきそうだ。まことに、全体主義的になるほど外からの攻撃に脆弱になる。百姓がたくさんいたころにも米騒動は起きているが、百姓の隣人がいるかぎり、食いっぱぐれる心配はなかっただろう。野菜が高騰しても暴動にはならないが、米が高騰すれば民は怒る。われわれ日本国民を一本の木に例えるならば、国は大木を支える主根であり、地方は側根、個人はさらに細かなひげ根や根毛である。細かな根が地に絡みつくほど木はしなやかで盤石になるが、主根頼りになってしまえば、嵐のときに土壌の水を吸いきれず、緩んだ地盤に簡単にやられる。
私に一つ、米作りの志ができた。戦後の減反政策の煽りを受け、米作りはほとんど金にならないというが、やはりおれたちは、天日干しした美味い米を好きなだけ食うべきではないのか。機械乾燥された味気ない米でなく、生きた美味い米を食って一日を労うべきではないのか。お米ナショナリズム。俺は米に日本の魂をみる。
2024.8.29
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