あれほど難しいと思われた病までもが、笑っているうちに治癒してしまったという話をよく聞く。笑いが肉体に及ぼす影響の大きさに思いを巡らしていると、宇宙の創造主であるデミウルゴスの神意に触れられそうな気がしてくる。よく笑う人間を神は生かした。笑う門に福を届けた。生きんとする意志は、笑いによって現世を肯定し、その翼を得るようだ。笑いを授かった人間はどう生きるべきだろう。
笑いについて自由に考えを巡らせてみたい。しかし、思い返せば、私自身、最後に大笑いしたのはいつだろう。子どもの頃から、お笑い番組を観て心から笑えたことは殆どなかった。テレビの笑いはわたしにとってどれも洗練されすぎていた。近所の子供がテレビの流行りものを真似るのはよく分からなかったし、芸人のような話し方をする大学生の集まりは苦手だった。
だが、笑いを知らない三十年ではなかった。腹を抱えて息もできないくらい大笑いしたことはよくあったし、そんな日々が何日か続くと腹が筋肉痛になることもあった。私はただ、もっとわかりやすい、素朴を笑いを欲していた気がする。素朴な笑いとは何だろう。三島由紀夫の「美しい星」のこんな一句を思い出す。
人間は、朝の太陽が山の端を離れ、山腹の色がたちまち変るのを見て、はじめて笑ったにちがいない。宇宙的虚無が、こんなにも微妙な色彩の濃淡で人の目をたのしませるのは、まったく不合理なことであり、可笑しな、笑うべきことだからだ。
生き物はその感覚のために淫蕩な存在だ。だが、淫蕩であることと卑猥であることは別である。もし、今日の社会を卑猥だと言うのなら、それは感覚が洗練されすぎているからだ。世界は、目をたのしませ、耳をたのしませ、鼻をたのしませ、舌をたのしませ、肌をたのしませてくれる。五感をとおして世界と触れ合うことで、人間は世界を得る。この最もはじまりの部分を素朴というのではないか。安易に堕ちれば、蔑み笑うようになる。そうではなく、力をもって世界を笑ってやる。朝陽が山の端を照らした瞬間から、夕陽が海の向こう側に美しく沈んでいくその瞬間まで、世界がみせてくれる現象にはおかしなものが溢れている。それを笑い飛ばすための力だ。虚無と悲壮感を、吹き飛ばす笑いだ。さあ自らの力で、世界の演劇を笑いにいこう。
2024.8.20
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