力あるところに宇宙は生まれ、力失うところに宇宙は消滅する。宇宙存在の本質が力であるなら、生命にとって善とは力であり、悪とは無力である。力の湧いてくる生き方は道徳的であるといえるし、無力に陥っていく生き方は非道徳的であるといえる。俺たちは生れ授かった力を爆発させて死んでいく。無力になりそうなところを屈しないために、人間と出会い互いに励まし合う。
人間を無気力にする社会に義しさはあるか。人間が無気力に染まる思想に愛があるのか。やりたいことはやればいい。だが、”やらないこと”や”やれないこと”が増えると、力は失われていく。力は雪だるまのように、転がせば転がすほど大きくなるが、転がさなければ衰弱していく。同様に、老いもまた力を奪う。だが、若者も顔負けするほどの、元気な爺さん婆さんから学べるのは、よく動き、よく働くほど、老いにも負けぬ力を得る。
俺たちはわがままな欲望の僕ではなく、力の僕となるべきではないのか。労働を前にしたとき、欲望は楽をし、逃げたがるが、力は苦しみをひょいと乗り越えていく。力によって苦を乗り越えたとき、力は膨れ上がり、俺たちは自由を味わう。まるで、宇宙の本源に近づけた生命が歓ぶような、行為の結果として勝ち取った自由である。現代病たる無気力を跳ねのけるには、そうやって少しずつ力を転がすことだ。選り好みせず、来たものは全部やる。出されたものは全部食う。そうやって、少しずつ生命の炎を大きくしていくのだ。
2024.8.15
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