時代が死に場所を与えてくれないのなら、自分で死に場所を見つけるしかない。今日ではそのことを”やりたいこと”と表現されるが、それは間違っている。やりたいことでなくとも、死ぬまでこの人に仕えたいとか、己の命を捧げてもいいと思えるものなら、”やりたいこと”でなくとも構わない。死に場所を持つ者は、必ずしもやりたいことをしていなくとも仕合せに暮らしていることは、世間をよく見渡せば子供でもわかる。逆に言葉を鵜呑みにし、”やりたいこと”をしたとしても、そこで死にきる覚悟がなければ、亡霊のような浮ついた生き様となる。死ぬ者は人間らしくなるが、死ねぬ者は亡霊となり、人生は立たない。
私はそうして、浮ついた二十代をおくった。恥だらけの過去は晒さないが、変な生き癖がついた頃から、この世に足を着けている実感がなくなっていった気がする。だが、矛盾するよう聞こえるかもしれないが、”やりたいこと”に身を注ぐことができるなら、やりたいことをやるべきだろうと思う。遅かれ早かれ、捨てきれぬ憧れは形になっていく。
二十歳前後、何を生業とすべきか分からなかった私は、「プロフェッショナル仕事の流儀」という番組を好んで観た。そこでは、想像もできないような様々な仕事が紹介されていたが、当時、最も感銘を受けたのはマタギの仕事だった。山で暮らす古老は、単独でヒグマを追跡し鉄砲で仕留めた。男は、仲間との追い込み猟はせず、一対一でクマと戦うことを美徳としていた。古く素朴な慣習と、猟師の魂に、打ち震えたことを今でも覚えている。一緒に暮らす女の「あ~のクマカレーはうまかった」という方言混じりの言葉が、十年近く経った今も頭から離れない。
そうしてつい先日、ついに狩猟試験を受けた。受かれば今年の冬から山に潜る予定だ。依然、若輩者には変わりないが、なんだかんだ、遅かれ早かれ、自分のやりたいようになっていくのが、人間の持つ深い力であるように感じる。それを引き留める逆向きの力、すなわち怖れの存在が、種が発芽する時期を一年単位、もしくは十年単位で前後させているだけではなかろうか。時期は必ずしも早い方がいいわけでもない。種は土のなかで力を蓄え、地上に飛び出す瞬間を見計らっている。中にはそのまま死ぬまで発芽しない種もあろうが、そういうものは縁がなかったことであろう。そう思えば、今か今かと生き急ぐ必要もなくなっていく。つまるところ、時間の作用に身を委ね、死にきるようにやっていくだけである。
2024.8.12
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