前後際断のまま。過去を背負わず未来を憂うこともなく。[776/1000]

かつて教師を志していた頃、ある団体の勉強合宿に参加した。そこでは、志を同にする者が集まり、寝食を共にしながら、教師の資質について議論したり、己の知識と技術を研鑽し合ったりした。寝る間を惜しんで、模擬授業を次々と作った。

今日書き記したい事は、その脇道での出来事だ。当時、同宿になった男の一人が、変わったことを言い出した。毎朝、寝起きと同時に「ありがとう」を10分間唱えつづけて一日を始めると言うのだ。「ありがとう」と言葉にするときは、誰かの顔を思い浮かべながら言うらしい。思い浮かべられなくなっても、ただありがとうと発しつづければいいのだという。

変わったことをするのも面白そうだと思い、私とそいつと、もう一人別の男の3人で、目覚まし時計を10分早め、翌朝から実践することにした。翌朝、我々は寝台に横になったまま、「ありがとう」をひたすら唱えつづけた。寝起きで舌がうまくまわらないまま唱えつづけた。口の筋肉が疲れてきても唱えつづけた。そうして、長い長い10分が終わると、身体を起こし一日をはじめた。

 

御利益の話をするつもりもない。ただ、三日目くらいに、最近、お経のようなものがぶつぶつ聞えると上の階で寝泊まりしていた女子が気味悪がった。実際、あれは感謝が云々という話より、修行に近かかった。「ありがとう」は次第に意味を失い、最後は空っぽのまま発せられた。口の筋肉が疲弊し、中断したくともできない。自己から始まったものの、次第に自己から離れていった。

 

「前後際断」という禅語がある。過去も未来も断ち切って、自己を忘却し、目の前のことにぶつかってゆくことを言う。昨晩、この言葉を、無性に書き綴りたくなった。「前後際断、前後際断、前後際断、前後際断、前後際断、前後際断……」という具合に。上の話は、この言葉を思ううちに追随してきた話にすぎない。自己を制約に投じるのは苦しい。だが、ぶつかりつづけていると、苦しさは次第に気持ち良さへと変わっていく。最近、畑で働く私は、仕事でしか味わえない気持ちよさを感じる。潔く死ぬ気持ちよさ、人の役に立つ気持ちよさ。過去を背負わず未来を憂うこともなく、前後際断のままに死んでいこう。そんな心持ちを綴ってみたかったまで。

 

2024.8.4

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