嫌々働くことは半矢のために血を流しながら逃げる鹿と同じだ[766/1000]

人は自己から離れる瞬間に苦痛をおぼえるが、同時に同等の、もしくはそれ以上の深い安堵を得る。なぜなら、自己から離れなければ、自己の内に溺れ、心が病気になることを知っているからだ。働きすぎで心を病む人間もいるが、ほんとうに健全な人間もまたよく働いている。

人間は堕落する。だが、堕ちきる強さも持たぬ。ついには、己の武士道を編み出さずにはいられないと坂口安吾は言った。社会的価値を問わず、どんな仕事でも、個人の程度より優れていると言えるのは、仕事に規律があり、命令があり、服従があるからだ。時間厳守の規律一つにしたところで、人間一人を殺す力がある。殺すといえば物騒だが、実際、自己が潔く死ぬことが「仕」え「事」となり、仕事は成立していると言えないか。”潔く”死ぬと言ったが、これは重要だ。”嫌々”では中々死ねないのが人間である。嫌々働くことは、半矢のために血を流しながら逃げる鹿と同じだ。重傷を負って、早く死んだほうが楽になるが、鹿は苦痛を抱えたまま逃げていく。

肉体を炎の海に擲てば、炎の海から精神が迸る。このごろ、仕事は自己実現というが、まことだろうか。私も教師を志したころ、こうした考えに心酔した。だが自己実現を願うほど、かえって自己に固執し、我のために疲弊して潰れてしまったように思う。自己に仕えるのではなく、雇ってくれた恩人に仕える。恩に報いるため身を捧ぐ。その方が日本人の性に合っていないだろうか。

 

2024.7.24

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