俺は猟師になろうと思う。[753/1000]

はじめに、男尊女卑でも女尊男卑でもないことを断っておこう。男だろうと女だろうと、卑しくもなれば貴くもなるのが人間だ。そのために男は男の道を行き、女は女の道を行く。道をたがえる男女が対立することも、性差に惹かれ合うことも自然の道理である。半端なものは反発する。しかし、道の果てで調和する。男は生れたときから男である。しかし「男になる」には修練がいる。今日、男女の仲睦まじきは、良いことと信じて疑われないが、迎合と馴合いにすぎなければ、本人たちもどこかしらに違和感を抱えているだろう。義の喪失、精神の堕落、天まで昇る背骨を失ったダメージは、男にとってのほうが甚大だと考える。

 

狩猟講習会に参加した。俺は猟師になろうと思う。5人に1人は女性であった。彼女たちを見て、なぜ俺は猟師に憧れるのかを今一度問うた。某配信サイトで、ある猟師になった女の話を思い出した。「獣を殺め、命を食ったことで、命の重みを知り、感謝して生きようと思った」と彼女は言った。言葉は悪いが、もし男がこう発すれば、それまでだと思った。男は、人様に褒められるような道徳的なことではなく、もっと現世的に意味のないもの、利得や、善悪観から離れて、人様にとってはつまらないと思われるようなもの、つまるところ、魂の懊悩と戦いの末、救済を求めている気がする。猟友会の爺ちゃんから、人間の数倍はある猪と対峙した話をした。今にも罠を壊そうと暴れていた猪を、決死の思いで差し止めたという。実際そんな場面を想像し、昂奮した。私は猟師に憧れるものは自ずと掴める気がした。

 

教師と教員はちがう。同じように、猟師も”猟員”とはまたちがう。今日、猟師といえる存在はあるだろうか。山を統べるものを信仰し、殺し、食うことで、永遠に生かされている存在。「命の重みに感謝して」などと軽々しく口にしない。そんなものは、生命を殺めた罪から解放され、赦されたいだけのきれいごとだからだ。ああ、いったい、彼らは何を求めたのか。俺はそいつを拝んでみたい。

 

2024.7.11

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