家なし生活、230日目。
お皿を拭く仕事がなくなった。
些細なことかもしれないけれど、「働ける場所」というのは、家のない私にとって、唯一帰れる場所だった。
唯一、生身の人間の温もりを感じられる場所で、唯一生身の人間と肉声を交わせる場所だった。
今の心情を正直に言えば、私はお皿が拭けなくなった事実に、動揺している。
お皿が拭けなくなった事実に、物寂しさと悲しさを覚えている。
私はお皿を拭くことに対して、「これは私を幸せにする仕事じゃない」とか、「つまらない」とか散々口にしてきたけれど、やっぱり誰か様のお役に立てることは嬉しかった。
例えそれが、お皿を拭くという、単調単純な、肉体作業でも。
「行きたくない」とか「やりたくない」とか口では言いながらも、その恩恵が見えていないことは、結構あるのかもしれない。
もしそこに一切の恩恵がなかったら、とっくに行っていないし、とっくにやっていないはずだ。
人は自由になることに、強い憧れを持つし、「どこにでも自由に羽ばたいてゆきなさい」と言われたら、きっと喜ぶ。
けれど、自由になって、初めて気づく不自由さもある。
少なくとも私は、お皿を拭くという単調さに帰ることのできる安心感をおぼえていた。
きっと人は、いつも自由で、いつも不自由なんだと思う。
人は自分が世界に存在していることを噛みしめていたいと願っている。
だから働くし、心から「ありがとう」と言ってもらえた時は、生きててよかったって涙する。
そんな喜びや涙の中に、私たちは自分の存在を帰すのだと思う。
ああ、生きてんだなぁって。 https://t.co/hX5SgcmAMd pic.twitter.com/tiTcpEHyei— とむ(テント生活7カ月目) (@tomtombread) January 8, 2020
1 帰る場所ないとき、自分の存在が分からなくなることがある
私たちが帰るのは「あなたは生きてもいい」と誰かに伝えてもらうためなんだと思う。
人は「私はここにいる」ことを誰かに知ってほしい。
あれほど、「皿拭きの仕事は、単調でつまらない」と言いながらも、いざ仕事がなくなると、そこに物寂しさを覚えている自分がいる。
今思えば、お皿を拭くことに、恩恵を得ながらも、私は「恩を受け取ってない」と言っていたということになる。
なんとも、恩知らずだったのだろう。
乱暴に拭いていたお皿たち、割るような勢いで拭いていたお皿たちに謝りたい。
帰る場所ということを思ったとき、映画「ショーシャンクの空に」の一場面を思い出した。
主人公ではないのだけれど、この映画には、ブルックスという、優しいおじいちゃんが登場する。
彼は50年も刑務所の中で、図書係として服役していて、真面目にがんばって働いていた。
そんな態度が認められたこともあって、ある日、仮釈放の許可が下りた。
けど彼は、仮釈放をかたくなに拒んだ。
50年も刑務所の中にいるから、刑務所の生活は厳しくても、外の世界より居心地がいい、というのだ。
外の世界に行けば、頼れる友人も、家族もいない。50年のうちに世界は大きく変わってしまっている。
彼はこのまま刑務所の中で、人生を終えるつもりだった。
結局、周囲の意見もあって、彼は仮釈放されることになる。
仮釈放されたあとの彼は、社会復帰で、スーパーでレジ打ちをする。
彼は慣れない仕事を、服役していた頃のように、真面目にがんばった。
しかし、仮釈放の身であること、50年間刑務所の中にいたことに、周囲は偏見を生み、彼はどうしても仕事に馴染むことができなかった。
最終的に、彼は自分で自分の命を絶ってしまう。
お金もない。友人もいない。家族もいない。仕事にも馴染めない。この先の人生が見えない。
外の世界に、彼が帰ることのできる場所はなかったし、高齢ということもあって、未来にもその希望を持つこともできなかった。
ブルックスは孤独だった。彼にとって刑務所は帰る場所だった。
ブルックスは死ぬ間際、部屋の壁に、”BROOKS WAS HERE”(ブルックスはここにいた)と刻んだ跡を残した。
私にはどうしてもこのシーンが忘れられない。
「俺はここにいた」、きっとこれは彼の魂の、一番深いところにある、最後の叫びだったと思う。
彼だけじゃない。
きっと誰しもが、自分が存在していることを、ずっと噛みしめていたいと思っている。
だから働くし、誰かに心の底から「ありがとう」と言ってもらえたときは、生きててよかったって涙が出る。
そんな喜びの涙の中に、私たちは「自分」を帰すことができる。
私たちは、生きながら、たくさんの戯言をぬかしたり、くだらない小言を並べたりする。
けれど、私たちが一番叫びたいことは、1つしかないのだと思う。
それは、「私はここにいる」ということ。
家族と談笑するときも、友達と笑うときも、パートナーと喧嘩するときも、職場の人間と上司の愚痴を言うときも、私たちが放つ言葉の想いを根っこまで辿れば、「私はここにいる」なのだと思う。
人は「あなたはここにいるんだよ」と感じさせてくれる場所に安心感をおぼえる。
逆に言えば、「私はここにいる」と言える存在が一人でもいるのなら、それはとっても有難いことだ。
2 帰る場所がないときに、初めて学べることがある
帰る場所がないときに、人は孤独の厳しさを学ぶ。人の弱さを学ぶ。人の恋しさを学ぶ。人の愛を学ぶ。
そして何よりも、魂の一番深いところで、人との繋がりを欲していることを学ぶ。
人間関係に疲れたとき、一人っきり、どこか遠くの南の島で、のんびり過ごすことに、羨望をおぼえることは誰しもあると思う。
実際に、人を離れる時期、というのは一度はあってもいいと私は思っている。
ただそれは、生きることから逃避するためではなく、
「この種の『自由』が、本当に私を幸せにするのか?」
を問うためだと思う。
人と関わることの煩わしさから逃れれば、一時的に解放感を味わう。
しかし同時に、魂が人と繋がることを切望していることに気づく自分がいる。
この矛盾があるから、人は不自由のなかに自由を見出すし、自由のなかに不自由さを見出すのだと思う。
私はいま、住む場所からも、働く場所からも解放された(なくなった)。
行こうと思えば、今日どこにでも行けるし、何でも挑戦できる。
けど事実、お皿拭きから解放された自由の裏側に、そこにいる温かい人たちに触れられないもどかしさを感じている。
帰る場所を失って初めて学べることがある。
孤独に生きることの厳しさ。自分の弱さ。人の温もり。愛情。帰る場所があることの尊さ。自分の魂が本当に大事にしたいもの。
今はそれを噛みしめる時期だと思っている。噛みしめるのが良いのだと思う。
この苦しさ味わうから、嬉しさに涙できる。帰る場所に、有難うって言える。
3 帰る場所がないことに苦しみをおぼえるのは、人と一緒にいたいという魂の叫び
「これがやりたい」という心の声でも、「人と一緒に居たい」という魂の叫びにはかなわない。
「私はここにいる」「あなたはここにいる」「私たちはここにいる」そう確認しあえたとき、帰る場所はどこにでも生まれる。
世間には、「やりたいことをしろ」みたいな風潮がある。
そんな言葉に煽られて、「やりたいことをしていない自分」に危機感をおぼえる人がたくさんいる。
私もずっとその一人だった。
けれど今思うのは、
- 幸せになることにおいては、やりたいことができているかどうかなんて、大した問題ではないということ
- 「これがやりたい」という心の声でも、「人と繋がっていたい」という魂の叫びには、とうてい敵わないということだ。
今朝、「帰る場所がなくなって、いま『自由』になった。どこに行けばいいのか、正直困惑している。」と友人に伝えた。
そしたら彼女は「自由を楽しめるようになったら、人間最強だよね」と笑顔調で言ってくれた。
ああ、本当にそのとおりだな、と思った。
帰る場所がないときに、この「自由」を楽しめたら、もう最強だと思う。
どうしたら楽しめるのだろうか。
その1つの答えは、
- この世界に、自分なりの方法で「私はここにいる」って自分の存在を刻んでいくこと
- 自分が関わる人と一緒に、「私たちはここにいる」って存在を世界に刻んでいくこと
だと思う。
- 親にプレゼントすること
- 誰かに「好きだ」という気持ちを伝えること
- 子供を信じて見守ること
- 人を笑わせること
- 絵を描いて感性を表現すること
- 言葉を綴ること
- お店の人に有難うと伝えること
- 「今日はいい天気ですね」と話しかけること
きっと何でもいい。
誰かに笑いながら、「私たちここにいるよね」って伝えられたら、それは帰る場所になる。
自分の意志から、自分の行動から、自分の思いやりから、働きかければ、世界のどこでも帰れる場所になる。
「ああ、私もあなたも、ここにいるよね。私たち、確かにここにいるよね!」
誰かとそんな風に笑い合えたら、その笑いの中に「自分」を帰すことができる。
ブルックスは、壁に文字を刻むなかにしか、自分を帰すことができなかった。
それがどれほど孤独で、どれほど悲しいことなのかは、きっと映画を観たことのない人も感じられると思う。
自由に生きようと思ったとき、最初はそんな不自由な辛さをおぼえる。
これまでいた帰る場所は、誰かが働きかけた場所だ。それを失えば、自分から作るという不自由さを被る。
けれど、自分から働きかけていけば、必ず世界に帰る場所はできる。
家族かもしれない。友達かもしれない。自分の好きなことかもしれない。歌かもしれない。言葉を紡ぐことかもしれない。
それを自分なりに見つけようとすることが、「不自由な自由」を楽しむことだと私は思う。
大丈夫だ。
私は確かにここにいるし、あなたも確かにここにいる。
私たちは、確かにここにいる。
もし帰る場所がなくて、どうしようもなくなったら、私に会いに来なさい。
温かいゆず茶や珈琲くらいは、お出しするから。
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