虚無について④[339/1000]

今度の終末こそ本物だ。何故なら、人間の思想と呼ぶべきものはみんな死んでしまったからだ。(略)

思想の衣装は悉く廃れ落ち、人間は裸で宇宙の冷たさに直面している。

お前のその非力な掌では、すでに冷えかかった人間の体を、温めてやることなどはできはしない。やつらを温めてやれるのは、核爆発だけなのだよ。神々が死に、魂が死に、思想が死んだ。肉体だけが残っているが、それはただの肉体の形をした形骸だ。そして奴らは、自覚症状のない死苦に犯されている。苦しみもなく、痛みもなく、何も感じられないというこの夕凪のような死苦。

三島由紀夫, 「美しい星」

 

あまりにも悲観的であるが、現に私が直面している世界というのは、このようなものである。まるで人間が宇宙のど真ん中で丸裸となって、その冷気をじかに浴びている感覚なのだ。ここでは、夢に救いを求めるも、マッチ売りの少女のように、火は手のひらの上で儚く燃え尽きた。

断食によって、虚無が身体に流れ込むとき、聖書の言葉が内側から身体を温めるのを感じた。私は神を信じていないことが昨日改めて分かったが、イエスとペトロを始めとする原始キリスト教団の魂はここに感じていたと思う。

虚無に対抗する手段が、読書にあると信じるのは、本には人類の魂や思想が詰まっているからだ。神々が死に、魂が死に、思想が死んだことによって、この肉体がむきだしとなるならば、もう一度、思想に触れ、魂に触れ、神に触れることによって、衣を取り戻したい。

これが、現状私が知る、唯一の対抗手段である。この数日間で書いてきたように、食べることを始めとし、あらゆる事物の中に自分を閉じ込めて、虚無をごまかすことはできる。これは手っ取り早く楽であるが、本質的な解決には何もならない。生きること自体が絶望という事実は、覆すことができない。

死にたい、死にたいけど死ねないから生きる。これが人間の歌だとしたら、あまりにも悲しい。私は生きることへの希望よりも、生きること自体が希望となるような、そんなものが現代には必要だと思う。

真実に金はかからない。その代わり痛みは伴う。かつて何十万とするスクールに参加したことがあったが、本当に救いの道を与えてくれたのは、古本屋で数百円で売られている本だった。(もしかしたらこれは救いの道ではなく、破滅の道かもしれないけど、きっと救いだと信じる。)本を読むには規律も忍耐も集中もいる。娯楽に溢れた今日に、読書をすることは容易ではないが、救いは狭き門にある。

 

「美しい星」はこう締めくくられる。

「もし自分の仮りに享けた人間の肉体でそこに到達できなくても、どうしてそこへ到達できない筈があろうか」

これは人類の問題である。人類の叡智をもって立ち向かいたい。

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