神というのはまことに狡猾な発明で、人間の知りえたことの九十パーセントは人間のために残しておき、のこりの十パーセントを神という管理者に委ねて、その外側の厖大(ぼうだい)な虚無とのつなぎ目を、管理者の手の内でぼかしておいてもらおうという算段から生まれたものだ。人間は人知の辺境守備兵たることの淋しさに耐えられないし、それは神という人間の傭兵が、莫大なお賽銭や尊崇と引きかえに、引きうけるべき役割になったのです。
三島由紀夫, 「美しい星」
虚無をごまかすことはできても、虚無を克服することはできないというのが、これまでの人生であった。いつの日かは、虚無を克服することを夢見るが、それが可能なのかは、私にとって残りの十パーセントの問題である。
現状、私は虚無を克服する術をもたないが、虚無のごまかしに耐えうる力も持たない。安心安全に包まれた生活や、幸福を退けるのは、その深淵に横たわる未解決の問題が、生命をヒシヒシと蝕もうとする感覚に気が狂いそうになるからであるし、幸福に感じるある種の冷たさは、虚無を和らげるためには深淵で生命を刺殺することも厭わない残酷である。
結果として、ごまかしを嫌う生命は、漠然とした虚無と接触するが、これに耐えうる力が生命にはあるかと問われれば、また別の問題となる。私が4カ月前にスマホを手放したのは、虚無をごまかす逃げ道を排除したかったからであるし、書物に触れるよう努めるのは、虚無の内側に飛び込んでいくためだった。しかし、繁殖力の強い雑草のように、逃げ道を塞いでも、別の逃げ道をつくりだすほど、虚無の苦痛は大きい。
読書の存在はかなり大きく、現状私が知る、一つの対抗手段である。受動的なものは人はごまかすことに長けるが、瞑想や読書のような積極的態度は、虚無を見つめ、内側に飛び込み、解明する助けとなる。今の私は書物に希望を求める。確証はないが、飛び込んだからには、内側からジリジリと燃え、いつの日か生命が虚無に勝利する日を夢に見る。
もし傭兵たちが一人もいなくなったら……、忽ち、虚無は国境を乗り越えてきて、人知の建てた町々を犯し、首都の家々の窓の下にまで溢れてしまう。朝、目をさまして、顔を洗おうとして、窓をあけると、もう窓の外には虚無しかない、という具合だ。二階の階段から足を踏みすべらせると、もう真逆様に深淵へ落っこちてしまう、漬物の桶の蓋をあけると、その中にも、真黒な虚無が顔をのぞけているという塩梅。花瓶に花を活けようとすれば、花はすとんと、花瓶の内部の底なしの虚無へ落ちてしまう。
三島由紀夫, 「美しい星」
三島由紀夫が「美しい星」を書いてから半世紀が経った。人の生活を虚無から守ってくれる傭兵はまだ存在しているだろうか。私にはもう生活のいたるところが虚無に浸食されているように感じる。世界が娯楽に満ちるのは、国境を乗り越えてきた虚無から身を守るためではないのか。
人間は虚無に対抗する手段として娯楽を生み出し、娯楽の中に自分を閉じ込める。最初は束の間の休息で、少し休んだら再び虚無に立ち向かう勇敢さもあった。しかし、次第に娯楽の時間は引き延ばされ、気づけば生活の大半を娯楽が支配し、虚無に立ち向かう勇気も忘れられる。このようにして、魂は奪われるのではないのか。それを幸せというのなら、やっぱり私は受け取れない。
探究はつづく。傭兵がいないのなら、自分で虚無に立ち向かうことが、時代に課せられた宿命であろう。この生命はどこまで近づけるか。
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