1000日投稿53日目。朝7時。福岡、大濠公園のスタバにいる。
朝7時だというのに、公園は人がわんさかしてて、なんだか落ち着かない。
「誰もいない湖のほとりで、のんびり小鳥のさえずりを聴きながら、ハンモックにゆらゆらと揺られて、木々が揺れるのを眺めながら、珈琲を片手に、静かで優雅な朝を満喫している」
なんて妄想すら、とても愛おしい・・・!
妄想に逃避したくなりながらも、、、違う、今ここを見ろ!目を覚ませ!
と、腑抜けた自分を叩き起こす。
我ここにあり!おっしゃ!今日もさくっと書き上げて、53日目の、祝杯をあげるぞ!
昨日、Cさんと2度目の再会を果たした。Cさんとは、昨年、ブログからお手紙をいただき、初めて出会った。
前回お会いした時、本音でバチバチやりあったこともあって、昨日は朗らかで楽しい時間が流れた。
本格的なお茶屋さんで、美しいお茶をご馳走になった後、ご自宅に伺い餃子祭りを開催した。
「トマト&トウモロコシ&チキン餃子」「とろろ&オクラ&納豆餃子」「トマト&クリームチーズ&チキン&ブラックペッパー&オリーブオイル餃子」「きゅうり&ミョウガ&ネギ&味噌ダレ餃子」「マシュマロ餃子」、想像力を駆使して、餃子を創作する。
味はどれも食卓のエース級で、ひき肉をベースとした普通の餃子にも、引けをとらないくらい美味かった!
特に私が一番好きだったのが「トマト&クリームチーズ&チキン&ブラックペッパー&オリーブオイル餃子」で、これはかなりイケていた。
最近は、何かと毎日をいかに遊ぶかをテーマにしているが、つくる遊びは、やっぱり上質だなと思う。
特に餃子作りは、自分が美味しくなると想像した素材を組み合わせて、皮に包むだけでいい。遊び下手な私でも、「皮に包む」という前提行為があるだけで、遊びの難易度はぐっと下がる。包むのが下手くそだが、下手くそな形の餃子すらも、味があって楽しめる。
ただ一方で、この遊びに物足りなさを感じている自分もいた。自由に素材を組み合わせるのは楽しいし、味も想像を超えるほど美味しいのだけれど、何か足りない気がした。
・・・あ、今、理由が分かった!
俺、別に餃子が好きじゃない。
私が本当に好きなのは玄米で、手の込んだ華やかなおかずをたくさん食べた時より、少しの味噌と野菜で、たくさんの玄米を食べた時の方が、食後の満足度はずっと高い。ずっと元気になれる。ずっと幸せになれる。
餃子を全部堪能した後、遅れて炊きあがった玄米をそのまま食べたら、どの餃子よりもはるかに美味くて、感動して涙が出そうになった。
あまりにも玄米に感化されている私を見て、「せっかく餃子を一生懸命つくったのに、特に何もしていない玄米のほうが美味しいと言われて、複雑な気持ちです」とCさんは言った。
その気持ちはとても分かる。想像力を駆使して、1つずつ苦労しながら包んだ餃子が、ボタン1つで炊きあがった玄米に負けたら、なんとも言えない気持ちになるだろう。
しかし、大好きなものは次元が違う。私は玄米を愛している。玄米に命を感じていて、玄米と私は1つだと感じる。私の身体は玄米によって生かされていると感じている。それくらい、玄米が大好きなのだ。
餃子が嫌いというわけではない。餃子は好きだ。しかし「好きなもの」では、「大好きなもの」には到底かなわない。
そう説明するとCさんはしぶしぶ納得したようだった。
餃子をいかにバラエティ豊かにつくるより、いかにうまい玄米を炊くかのほうが、私はずっと興奮できてしまう。
どうすれば米粒が綺麗な形を保てるか、どうすれば瑞瑞しく、元気はつらつとしたお米に炊きあがってくれるか。そんなことを考えて、試行錯誤するほうが、私はずっとのめり込めてしまう。
うまい玄米を食べるために、自分で苗を植えて、120日間、少しずつ大きくなる稲を、毎日ニヤニヤと眺めながら、「大きくなれよ!うまくなれよ!」みたいに声かけて育てたら、もう遊びとして、これ以上ないくらい幸せだろうなと想像する。
日々を遊ぶことは、ずっとテーマにしているが、実は、大好きなことをしているときのように、ただ興奮していたいだけなのかもしれない。
大好きなことをしているときは、遊ぼうなんて考えなくても、勝手に興奮して、体温が上がって、人に語りたくなる。
おもしろくしたいという姿勢は、今をおもしろく生きることに貢献するが、おもしろくない今を前提としている。
大好きなことで今日が満ちれば、その前提が変わる。身体の基礎体温が上がるように、そもそもの今この瞬間を興奮して生きられる。
全然、まとまってないですが、タイムオーバーなので、今日はここまで!
皆さまは、何か大好きなものはありますでしょうか?体温ばりばり上げて、そんなお話、ぜひ聞かせてください!
ではまた明日!ばいばい!
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