薪がパチパチ燃える音と、木々が風に揺れて、木の葉が擦れる音しか聞こえない、そんな深い夜の静寂を心から待ち望んでいるのに、日が暮れようとする夕方はどうも苦手だ。いったい今日、なにができたのだろうと考えると、また一日を無駄にしてしまったのではないかと、とても悲しくなるのだ。
家族をもつ父親は、きっと今ごろ仕事場を抜け出し、優しい家族の顔を見るのを楽しみに家路につくころだろう。母親は晩の食事の準備に忙しくしていて、子は外から元気に遊びに帰って、学校の宿題を懸命に片づけているに違いない。
家族をもつ人間は、幸せかな。そんなことを思うと、夕暮れ時の悲しさは、ますます深くなるいっぽうだ。
だけどよ。世の中、そんな幸せな人間ばかりじゃなくて、ひとりの人間も大勢いるだろう。夫に先に旅立たれてしまった未亡人、子は成長して家を飛び出したきり帰ってこず、妻に先立たれたご老人、人付き合いが下手くそで、友達もおらず、一人を好むくせに、一人の寂しさに潰されそうになる愚かな青年たち。河川敷で暮らしているホームレスは、元気にやってるかな。
悲しい思いはしていないかい。寂しい思いはしていないかい。今日がどんな日だったか、打ち明けられる相手がいないというのは、とても寂しいことだね。目に混沌を宿して生きる君たちは、自分は幸せだと言い張っているけれど、ほんとうに幸せかい。幸せだと言わなきゃいけないような社会に、「私は幸せです」と言わされていないかい。もし言わされているのだとしたら、いったい誰がその生命の雄叫びを放つのだい。寂しさを押し殺すことはやめて、「私は不幸な人間です」と、もういっそ泣いちまってもいいんじゃないのかな。やっぱりひとりで生きることは寂しくて、不幸なことなんじゃないのかな。
皆が幸せにと言えば聞こえはいいが、ほんとうにそんな世界はあるのかな。生きとし生けるものに注がれるのはいつも光と陰で、幸せな人間の裏側で、不幸な人間が苦しい思いをしているんじゃないかな。
生きとし生けるすべての物へ 注ぐ光と陰 花は枯れ 大地はひび割れる そこに雨が 降るのだろう
森山直太朗, 「生きとし生けるすべての物へ」
だから幸せだけに目がくらんだら、救われないことも起こりうる。幸せな人間にも不幸な人間にも、等しく降り注ぐのは、暖かい太陽と慈悲の雨だ。乾いた心は雨で潤わされ、湿っぽさは太陽と風が吹き飛ばしてくれる。そうして、生命は芽を出し花を咲かせ、幸せと不幸を巻き込みながら、永遠に向かって燃えていくんじゃないのか。
でもよ、やっぱり幸せになってほしいな。強がってばかりいないで、自分から人に歩み寄って手を差し伸べて、幸せになってくれよ。そんなことを願ってる。
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