私が心に描いている死に方は、いわゆる死とはいえないということである。それはむしろ、魂がこの地上からあの天国へと移る「道行き」というべきだろう。いずれにいても、こうしたふたつの世界にまたがる想いは、きわめて心地よく、いわゆる「肉体の死」といった地上的な考え方とはまったく異なっている。
したがって、この世の生を終えることに、少しの不安もない。むしろ私の心は、素晴らしい天国での生活が待っているという期待感に満たされている。
「無病法」, ルイジ・コルナロ
これは、少食ならぬ極少食で成人病を克服し、102歳の天寿をまっとうしたルイジ・コルナロ大先生の晩年の心境である。われわれの魂は、あの世からこの世へと遣わされ、死んだら再びあの世に還るという考え方は、何も目新しいものではない。だが、ほんとうにそうであると信じられる人間は多くはない。食を節制することは誰にでもできる簡単なことであるが、愉しみのために蔑ろにされてしまうのが大抵である。だが、もし霊性を掴み、物質を克服するのなら、健康を手にするばかりでなく、晩年は愉快で快活なものになるのだろう。
私が当著を読んで、第一に関心したことは、この時代の医者たちが、成人病を抱えるルイジ・コルナロ氏に、洗練された治療を施そうとするのではなく、極少食をすすめたことである。今日、どこにそんな医者がいるだろう。仮に食わぬことで治ると知る医者も、本音を言うことはかなわない。薬を出したほうが金になるだろうし、何より患者側も食を節するという古典的苦行より、最先端で手軽な処方箋を求める。双方ともに、時代に倣い、時代のやり方に準じていれば、波風は立つまいが、それが人間の健康にかかわる問題であるなら、金や欺瞞のために本音を隠蔽することは、非常に心苦しいことである。
ルイジ・コルナロ大先生の晩年の心境に近いものを、私も森の隠遁生活で抱えたことがあった。物のない素朴な生活に身を浸すと、自ずと霊性は高まっていくのだ。隠遁生活を終えたときの私は、「人生に詩があるかぎり、この生がどうなろうとも何の不安もない」という心境にあった。怖れるのは、自己存在が詩ではなくなり、人生から詩が失われることだけだった。これは人生への達観などではない。霊性感覚が高まれば、誰もが抱くものである。
「病のときの食は病を養う」とヒポクラテスは言った。これは現代病である、無気力にも言えることではなかろうか。食うによって紛らわされることもあるが、同時に脇腹に根づいた「無気力」は養われているのである。私は鬱のような精神的な病気も、断食すれば治ると信じているくらいだ。どうしようもない不調も、一度、食うものすべてを断ち切ってリセットすれば、身体を蝕む毒は抜けていく。
少なくとも私には、これ以上の享楽は魂を失うほうにしか向かわないと思える。美味いものを食いたいなどとは思わぬ。それよりも、この哀れな魂に、養分を与えてやることしか、私にはできないのである。
2024.4.10
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