「どうして空は青いのか」に対する非科学的な答え[657/1000]

空はどうして青いのだろう。もし子供にこんな質問を投げかけられたら、何と答えるだろう。スマホで検索をして、「青い光の波長は・・・」などと答え始めようものなら、それはもう科学主義にどっぷり侵されている。もし、波長の長短の関係で、青く見えるとするのなら、なぜそのような特性をもつ色が、赤でも緑でも橙でもなく、青だったのか。そもそも、なぜこの世界には光があり、色があるのか。

 

そう考えていくと「どうして空は青いのか」という問いに真剣に答えようと思うのなら、「どうして神は世界をこのように創り上げたのか」という問いに答えなければならなくなる。むろん、科学の領域ではありえない。哲学、形而上学である。だが、必ずしも聖書を引用しろというわけではない。日本には、旧約聖書のような天地創造の神話はないのだから。

その代わり、自分がこれまで生きてきた人間としての「生」を顧みて、心に手繰り寄せた神の意図を、自分の言葉で子供に伝えなければならない。情報でも科学でもない、魂のうちに繰り広げられてきた神との対話を、子供に伝えなければならない。それが”教える”ということであろう。

 

私はしばしば、人生とは神の真意をみつけるためにあると思う。「空はどうして青いのか」「小鳥はどうして無垢なのか」「なぜ人間は苦しみを背負うのか」「なぜ人間は堕落するのか」「なぜこの時代に生まれたのか」「どうして空は自由を感じるのか」挙げていけばキリがないが、神がそのように宇宙を設計した真意を、大地を踏みしめながら見つけ出してゆくことに、人間の自由をおぼえる。何者かが定めた意図のもとに生きるのも、科学と物質に意図された世界を強いられるのも不自由であろう。

 

「神は死んだ」とニーチェは言った。「神とは人間の作品であった」とニーチェは言った。まことに、劣悪な環境から生まれた「神の真意」であっただろうと今でこそ分かる。だが、ニーチェは「作品としての神」の死を言ったのであり、万物の創造主そのものの存在を否定したわけではなかった。”信仰”が奪われても、”信仰の自由”までは奪われることはなかった。教会の天上は朽ちても、その上には大きな青空が広がっていた。この言葉の意味をよくよく味われよ。人間の自由の道はまっすぐ伸びている。真の自由は拓かれるものだ。

 

2024.4.6

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です