肉欲―すべての禁欲的な「身体の軽蔑者」たちにとっては、かれらを苦しめる棘と針だ。
肉欲―賤民たちにとっては、かれらをじわじわとあぶる火。
肉欲―とらわれのない心にとっては、無邪気な自由なもの、地上における楽園の幸福。
肉欲―衰弱した者には、甘ったるい毒となるが、獅子の意志を持つ者には、大いなる強心剤。
肉欲―それはより高い幸福と最高の希望への象徴としての大いなる幸福だ
肉欲―だが、わたしはわたしの思想のまわりに、いや、ひとつひとつの言葉のまわりにも、垣根をねぐらそう。豚や酔いどれどもが勝手にわたしの庭園にはいってこないために!
ニーチェ, 「ツァラトゥストラはこう言った」
かつて私は「身体の軽蔑者」であった。死の舞踊に魅了され、ありとあらゆる肉欲を軽蔑した。それでも食わなければ死んでしまうし、眠らないわけにもいかない。肉欲を軽蔑しながらも、肉欲に縛られつづけるこの世の不合理を、私は随分厭わしく感じた。
断食すれば腹が減る。腹が減れば食うことばかりを考える。身体から自由になるつもりが、かえって身体に拘束されてしまった。無私に憧れたはずが、かえって自己への固執を強めてしまった。身体を軽蔑する分と同じだけ、身体を必要とした。この葛藤すら忌々しく、軽蔑すらも軽蔑した。
昨日、身体の軽蔑者に足りないものは「分別」だと書いた。今日、身体の軽蔑者に足りないものは「力」だと言おう。真理のためにかえって目が汚れてしまったのだ。欲望のためにかえって己が無力となったのだ。われわれには身体がある。身体をもって生きている。しかし、身体をどうして卑しいと決めつけるのだ。身体は本来、神より授かった無垢なものである。身体が卑しいのではなく、迷妄と無力のために卑しく扱うすべしか弁えないだけではないのだろうか。
何かのめぐり合わせで、この世にやってきた。われわれは、宿命である「生」を軽蔑するよりも、敬う術を学ぶべきだろう。
私は、「生」を「無邪気」の名のもとに「罪」の手から解き放つことにした。「肉欲」を「力」の名のもとに「卑しさ」から解き放つことにした。「軽蔑」には「素朴な住処」を与えてやった。「分別」には「魂の導き手」を教えてやった。そうすると、ほんの少しばかり「生」は可愛らしい無垢な女に見えた。果たしてこれが「生」の本来の姿だったのではなかろうか。いつから「無分別」と「無気力」によって醜く厚化粧された「生」を、彼女の真の姿と勘違いしていたのだろう。
すべては、魂の導き手に教わったことだ。幽霊のように生きてはなるまいと。身体を軽蔑する者よ、現世を彷徨う魂よ、この世にもちゃんと帰る場所があることを覚えておこう。
2024.4.2
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