失ってはじめて大切なものだったと気づく。それが愛情であったのなら、なおさらのことである。突然の別れに気持ちの整理もつかぬまま、しかし、これでいいと本当は知っているのである。傷んだ心は放り出したまま、不器用に笑ってみせて、「必ず幸せになるんだぞ」といっちょ前に男を演じる。感情もろとも汚い荷物をカバンに詰込み、すべてを背に負って旅に出るのだ。これが古今東西変わらない、くだらぬ生き方に足を踏み入れてしまった男の宿命である。
昨日、「書物の海」と題して、隠遁と読書の覚悟を固めたばかりであるが、早速、隠遁の覚悟を打ち破らねばならないかもしれない。思いの外、家づくりの材料に金がかかっていたようで、財布はずいぶん痩せ細り、あと一か月もすれば底を尽きてしまう。しばらくは社会と労働から離れて、冷静に世界を見つめてみたいと思っていたが、どうやらこの願望はお預けになるかもしれない。
看病している親や、養っている妻子がいる場合、金がなくなり生活苦になることは、大変な苦労がともなうが、その苦労は「誰かのため」があって初めて生まれるものであり、決して自分一人のためには生まれるものではないのである。一人身の人間にとって、金がなくなることなど、実はどうでもいい問題なのであり、それは自由や気楽というよりは、人生のもっとも血の通う部分から目を背けているようで、なんだか寂しい感じもするのである。
たとえ刑務所に入っても、塵紙に書いてでも、この1000日投稿は続けると以前書いた。「書物の海」についても同じような心境であり、これから状況がどう変わろうとも絶対につづけてやろうという心持ちでいる。人生に本気でぶつかろうと思う人間は、遅かれ早かれ、読書にぶつからねばならない宿命にあるのだと思う。私の場合、それが今である。
【書物の海 #1】 獄中記 (角川文庫ソフィア) 文庫 – オスカー・ワイルド (著), 田部 重治 (翻訳)
「苦悩はいとも永い一つの瞬間である。それは季節によって分かち得ない。ただその気分を書きしるし、その繰り返しを記録しうるのみである。われわれ囚人にあっては、時それ自身は進行することなく、回転するのみである。あたかも苦痛という中心の周りを廻っているように見える。人を麻痺させるこの動きの取れない生活にあっては、生活の一つひとつの事柄が一定不動の型式に従って規定されている。だからわれわれが食い、飲み、臥し、祈るにも、もしくは祈るためにせめて型ばかりに跪くにしても、すべてこの鉄のような定則のまげることのできない掟に従うのである。」
「悲哀は愛以外のいかなる手が触れても血を噴く痛手であり、また、愛の手が触れるときでさえ、痛みこそしないものの、同じように血を噴くものである。
悲哀のあるところに聖地がある。いつか人々はこの意味を身にしみて悟ることであろう。それを悟らないかぎり、人生については全く何事も知ることができない。」
「私は完全な文無しであり、全然、よるべなき身である。しかし世の中にはそれよりももっと悪いことがある。腹蔵なくいうと、出獄にあたって、この世に対して毒づくような気持ちを心に抱いているくらいなら、いっそ、喜んで戸ごとにパンを乞うて歩きたいのである。
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