生命が幸福の渦に飲まれることを怖れて、長いこと幸福を退けてきたが、昨日も書いたとおり、それをする必要がないと分かってからは、少しは幸福というものを受け入れられるようになってきた。森に家をつくるという5年越しの憧れを形にする日々が楽しくないわけがなく、日に日に完成に近づく今は、毎日が楽しくて楽しくてしかたがない。楽しみながらやっていると、家づくりもさらにはかどり、さらに楽しくなるという好循環にはまる。決して誰かのためになっているわけではなく、社会的にはつまらないことであるのだけれど、理想を地上に具現化することは、例え個人的なものであっても、夢があっていいと感じる。先日の両親につづき、森に遊びにきた人は、きまっていい表情をする。それは、夢が放つ波動のしわざに違いない。
幸福も不幸も拒絶し、切り拓くように進んでいくといえば、かっこいい気もするが、そこにあるのは現世の拒絶であり、生命の拒絶なのかもしれないと思う。幸福を退ければ、同時に不幸も退け、幸福のみならず、不幸にもなることができないのだ。死への想いが強まるのは、生に拒絶されるからであり、はたから見ればこれは不幸にも見えるが、その内実は、不幸にすらなっていないのである。
体内のエネルギー循環がよくなったのか、約半年つづいてきた吃音が出なくなった。私にとって吃音はひとつのものさしであり、精神が緊迫すると吃音が生じ、言葉がつっかえて出てこなくなる。吃音状態のほうが、病的で人間らしいと思ってきたが、正直かなり不便ではあるし、たくましい姿ともいえない。この吃音がどういうわけか、幸福を受け入れると出なくなった。胸のつっかえが取れて、エネルギーが流れ出したようである。
状態を受けいれると流れがうまれる。困窮し精神がドロドロで詰まりそうなときに流れをつくりだす力こそ、精神鍛錬のめざすところかもしれない。幸福を受け入れることは、その基礎練くらいにはなるだろう。幸福に安住する風潮は嫌えども、幸福すら受け入れることのできない人間は、幸福にはじき返されている。不幸どころか幸福すら乗り越えていないのだ。そんなことでは、魂より渇望する大業を為すことは遠く及ばない。
幸福を拒絶しているのではなく、幸福に突き返されているだけである。まずは、ひとつの試練だと思い、幸福を受け入れてみることだ。
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