両親が森にやってくる。こんな不便で野性的なところには来てほしくないというのが子の本音であるが、気づけば勝手に自分たちの宿を予約して、旅程をきめてしまっていた。ただでさえ親不孝な生き方をしている私は「来るな」とも言えず、それならばせめてちっとは、まともにつくった家を見せて安心させてやれないかと思い、この一か月の森に家をつくる熱源としていた。
育ててもらった親に情けない姿を見せることは、耐えがたい恥である。思い返せば福岡で教員をして、体調を崩し療養休暇をとったときも、頼んでもいないのに教頭が私の母に連絡をし、心配した母は岐阜から福岡まで新幹線でやってきた。この何気ない出来事は、私の人生にとって最大の恥辱となった。
体調など休めばいくらでもよくなるが、精神の清く高慢な部分は、一度深くえぐられると、立ち直ることが難しくなる。私は今日まで、教頭を恨んだことは一度もなかったが、むしろ恨むことによって憤りの炎を燃やさなければ、当時の精神の誇りは、永遠に敗れたままではないかと感じている。
私の人生が舵を失ったように奔放になりはじめたのはこの頃からである。人間にとって、誇りとは背骨のようなもので、恥辱により誇りを失えば、背骨は砕け、直立した生き方はできなくなる。人を心配することは、場合によっては当人への侮辱となる。男の性質を帯びるものには、なおさらのことであり、心配よりも喝である。
鬱の人間にがんばれと言うのは禁物であるというが、それは心身と魂の問題をいっしょくたにしているからである。心身は物質的であり、休めばよくなるものであるが、精神については、土俵に女をあがらせてはいけないように、守らなければならない聖域というものが存在する。魂や誇りといった問題は、そういうある種、差別的で不道徳的なものであり、ときに復讐の炎を燃やすことや、恨みを抱え続けることがその人間を真に生かすことともなりうる。
思えば今の日本も、誇りを失った状態になっている。日本の背骨といえば武士道であり、武士道を貫く人間がいなくなれば、国として胸を張ることができなくなる。以前、女人禁制の土俵にあがった女性看護師がすぐに立ち退きを命じられ、塩がまかれたことが騒がれたことがある。現代は、魂が失われつつあるので、これを水平的にしか捉えられなくなっているが、もし男女平等のもと、女人禁制が廃止されることになれば、残された日本文化もその背骨を失っていくことになる。逆に、お産なんかは女の聖域であり、男は立ち入ることさえはばかられていた。
心身の問題だけを考えれば男女は平等であるが、魂や誇りといった問題には、それぞれの弁えが存在し、立ち入れない領域がある。そして、これらは差別的で不道徳な性質をもつということである。
男女平等が大切とはそのとおりである。差別がいけないとはそのとおりである。恨んではいけないとは、復讐がいけないとは、そのとおりである。しかし、魂や誇りを前にすれば、こうした不徳を犯さなければならないこともあるのだし、これを弁えとして認めないかぎり、生命の救済はないのだ。
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