毎日しぶとく書いていれば、読者は増えていくだろうと心のどこかで思っていた。しかし、1年経っても、増えては減ってを繰り返し、かぎりなく0になった。数字でしか判断できないことは情けないが、お前の言葉には価値がない、お前は一人で生きろ、と見捨てられたようで悲しくなる。だが、そもそもこんなことを思う俺が悪い。お前は、数字のために書いているのか。0になったら書くことをやめるのか。それは突き詰めたら見栄だろう。卑しい損得勘定だろう。数字を気にすることすら恥だと思わねばならん。だれにも見られなければ、へし折れてしまう信念など信念ではない。むしろ、だれにも見られずとも突き抜けるのが男というものじゃないのか。
転禍招福。ピンチをチャンスに転換させるという考え方をする。金がなくなりそうなときも、己の信仰を試せられるいい機会だと思った。金のある状態で、物質主義を否定したところで、口ではなんとでも言えるのだ。今度もそれと同じだ。だれにも読まれず、物質的に恵まれないときにこそ、毎日言葉を書くことの意味をとらえなおせるのだし、原点に立ち返られる。
この1000日投稿は、私にとって箱舟みたいなものである。宇宙の大海をこの舟に乗って冒険している。そして、1000日後にはどこにたどり着くのか、自分でもまったく想像できず、少しはマシな人間になっていたいと願うのだ。
この1年間の変化は想像以上だった。自分でも信じられないが、1年前は、引きこもり鬱から抜け出したばかりの、脆弱なひよっ子状態である。厭世的で消極的で、毎日が虚無に満たされ、生きることの絶望に必死に耐えていた。この1000日投稿は、虚無に抗うことからはじまったのだ。
それから、葉隠と出会い、ヒューマニズムと人間礼賛に満ちた社会の洗脳から解き放たれ、内的世界に地殻変動が起きた。まったく新鮮な世界の大地を踏みしめていると、自己の内に生命の点を感じるようになった。苦しみを苦しみとして、そのまま運命として愛せるようになっていった。
ちょうど1年で、八ヶ岳と諏訪湖の中間に位置する森を購入した。いつの日か書いた「やりたいことリスト」を掘り返し、達成日を記入しようとすると、1日もずれることなく、ちょうど1年後の6/11だった。箱舟は願いを叶える。
やろうとしていることは、鴨長明のような隠者の暮らしに近いものがあるが、以前の引きこもりとは180度違うものだと自覚する。心が前を向くか後ろを向くかの姿勢だけで、同じ行為のなかに真逆の価値を生むことは、中村天風先生から学ばせてもらった。今は自然的、信仰的で積極的に運命を愛す。
私にとっての1000日投稿はこのようなものである。この1年、大海を箱舟で冒険し、少しはマシになれただろう。しかしクズのような人間であることには変わりがない。あと630日つづくか自分でも分からず、またどこに行くかも分からないが、ただ心に蓄積される日々の混沌を言葉にぶつけて、箱舟のままに旅をしたいと願う。孤独でよい。孤独のまま、冒険をする。
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