交通機関によって、移動時間はかなり短縮されたが、余剰時間で、大半の人間はしょうもなくスマホを眺めている。余暇が生まれることによって幸福になると信じられていたが、余暇を幸福のために使うには少しばかり知恵がいる。私は歩いている時間の方に本当の幸福を感じていた。https://t.co/hugJqSfRAh
— 内田知弥 (@tomtombread) June 9, 2023
私の生存実験は、「住」の家なし生活から始まったことは、一昨日書いた。次は「食」について書きたい。
私は長いこと、1日1食でやっている。この1食もかなり簡素なもので、1~1.5合の玄米の上にキノコや野菜をのせて一緒に炊くだけである。しめじ、まいたけ、えのき、ほうれんそう、ブロッコリー、アスパラ、人参などの野菜を、その日の気分で手に入れたものを1つ使う。そこに、なるべく海がそのまま詰まった、いい塩をふりかけて食べる。手元に味噌と、乾燥ワカメもあるので、汁物が飲みたくなったときは、この2つにお湯を溶かして味噌汁をつくることもある。たまに、肉が食べたくなったり、魚が食べたくなることがあるので、その時は別で買う。基本的には、玄米、野菜、キノコ、塩、海藻、の5つで私の食は構成されている。そして、これが現時点で、私にとって「これだけあれば死なず」「これだけあれば元気である」最低限の分量である。
1日3食の概念が破壊されたのは、八ヶ岳の麓で皿洗いの仕事をはじめて、数ヵ月経ったころだった。1日16時間の断食で、オートファジー効果が起こり、細胞が若返るという本に感化され、1日2食をはじめることにした。当時の私は1日3食が当たり前だと思っていたので、1食を減らすということだけでも革命だった。これまでの健康論は、”どれだけ食べるか”よりも、”何を食べるか”が論じられがちだった。その結果、何種類ものサプリを几帳面にとったり、とにかく野菜を食え、みたいなことになりやすかった。
朝を一食抜き、昼と夜だけは好きなものを食べた。実際、身体に変化はすぐに訪れた。空腹のときに全身の細胞が蘇っていると思うと、不思議と力が込み上げてきて、脳も活性化するようだった。昼前にはいつも、腹がぺこぺこだった。昼飯は美味いばかりか、断食を成し遂げた達成感も得られた。私は生命が歓びに向かっているのを感じ、量を減らすことは、宇宙の本質に繋がっているに違いないと直感した。
1日2食の概念が破壊されたのは、それから数年先である。極少食で知られる、16世紀のイタリアの建築家、ルイジ・コルナロの「無病法」、石原結實先生と甲田光雄先生、ムラキテルミさんの著書に感銘を受けて、1日1食を試すようになった。この時から、玄米をはじめた。そして、玄米を食べてしばらくすると、おもしろいことに気づいた。「玄米は、おかずがなくとも不足感なく食べられる。白米であったなら、白米だけで食べることはできず、必ずおかずが食べたくなる。なぜだ。」
この問いをもとに、量だけではなく、質も考えるようになる。そして辿り着いたキーワードは「全体性」であった。野菜には、毒があるという話は有名だが、これは茎も皮も葉も実も、全体を食べることで、その毒を別の部分が打ち消すようになっているという。私はこの話を聞いたとき宇宙の神秘を感じた。我々が食に感じる不足感とは、何かが取り除かれ、全体性を失っていることによって生まれる不足感だと知った。玄米をおかずなしで食べても不足感が起きない理由を掴めた気がしたのだ。
宇宙は愛でできているのだとしたら、余すことなく全体を食べることは、自然界の掟のとおりである。私の食の見え方は、この時から変わっていった。食を構成するすべての食物の全体性が見えるようになった。全体性の確保された食事ほど、それが複雑な料理として編み出されているのならなおさら、そこに神を感じ、料理の芸術を感じ、愛を感じ、美しいと感じるようになった。その代表的な例こそ、粗食であろう。粗食は、決して貧乏な食事ではない。最低限の食物で、最大限の自然の恵みを享受しようと、庶民が神を志向し、生み出した文化である。
自然の掟にしたがう食事ほど、食後に得る幸福感は大きい。自然の実りを、美味いとか不味いとかいう理由で、部分的に排除することなく、宇宙の愛に従って、全部を身に代えさせてもらうのだから、当然の結果といえる。
豪華な食材で派手な食事を作ったとしても、自然への畏敬の念が欠けて、全体性が失われていれば、そこには宇宙と個体の間に歪みが生じる。この歪みは、どこかで必ず精算される。それが、小さなものでは不足感であり、大きなものであれば病気である。自然から分離した現代の生活は、歪みだらけだから、これは頻繁に起こりうる。断食が行われるのは、この長年の歪みを正すためであろう。歴史を辿れば、宗教家はいつも断食を行ってきた。断食には神を志向する見えない力が働いているのだと思う。
何度も言うが、私は生活にこそ、人間の智慧も文化も人間として生きる意味もあると思う。しかし、生命を本当に活かす(生活)には、生命の在り方(生存)を考えなければならないということだ。私も今の食に不満があるわけではないが、一生これでやっていくというこだわりもない。食にはなるべく無関心でありたいというのが願望である。ただ、今日書いてみて、複雑でありながら一つ(全体)であるような、そんな神秘的な料理というものに出会ってみたくなった。いい値段のする料亭に行ったら、そんな料理にも巡り合えるのだろうか。料理人も、もともとは神を志向する職業だったんじゃないかな。
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