生活には生存の不安があるが、生存には生活の不安はない[353/1000]

生命の存在を考えることを”生存”、生命の活かし方を考えることを”生活”という。

生命は生存の問題が先にあって、その上に生活の問題があるのだけれど、生存のほうは「今日生きているから問題ない」と軽くあしらわれ、人の関心は生活に集まりやすい。食べ物とか、習慣とか、仕事とか、趣味とか、娯楽とか、そういうものである。

 

しかし、生活の問題ばかりを考えると、気づかぬうちに生命は生活に埋もれていく。この感覚に疑問をおぼえるとき、人は生存について考え始める。生きるとは何か。人間とは何か。愛とは、宇宙とは、、、。我々はどこから来て、どこへ行くのか。生存は根源を問う。

生命を本当に活かす(生活)には、生存の問題を経て、自分自身の哲学を確立する必要があると思う。自己の存在を知る過程で、何を食べるのか、どんな習慣を持つか、どう働いていくのかを、自分自身の哲学に支えられた信念として得る。

 

私はいつの日か、あまりにも難しくなりすぎている”生活”に、違和感をもった。苦しみながら仕事をしてお金を稼ぎ、稼いだお金を何に使うかと思えば、洒落たグランピングだったり、オーガニックな野菜を使ったランチだったりする。しかし、キャンプということなら、わざわざ金を払わなくても、その辺の森に入っていけば誰にも邪魔されない本物の自然を満喫できるし、わざわざ高い金を払うオーガニックな野菜も、自分の畑で育てれば無農薬な手作り野菜が好きなだけ採れる。

なにか生活というものを大事に考えすぎるうちに、糸が複雑に絡み合って、本来したかったことを、ものすごく遠回りして得ようとしているような、そんな印象があった。生活の中にできた交通網は、経済を第一に動くから、金の流れの奴隷となりやすく、欲しいものを手にするために遠回りする現象がいたるところで起きている。

 

生活のなかの不安は、つきつめていけば、生存の不安になる。「死なないか」とか、「飢え死にしないか」とか、「ホームレスにならないか」とか、「孤立しないか」とか、最悪の想定がいつも根底にある。生活の中には生存の不安があるが、生存の中には生活の不安はない。しかし、生存だけを考えれば、今の日本で生きることは、そんなに難しくない。

 

坂口恭平さんの「独立国家の作り方」という本は、ホームレスの生き方を紹介している。ホームレスの中には、家がなくなったことをきっかけに、生存の問題を考え、哲学を生み出した人間も少なくない。

ホームセンターに行き、3万円の材料費でモバイルハウスをつくる。畑の管理者がいなくなった休耕地は、全国で約28.1万ヘクタール、東京ドーム59,780個分ある。そのいくらかを借りて、畑にモバイルハウスを設置すれば、これで住む場所は完成する。あとは、畑で自分が食べる分の新鮮な野菜を育てればいい。水がないと生きていけないが、日本は全都道府県で湧水に恵まれているし、上水道の管理も素晴らしく、公園の水も飲める。電気を使いたいならソーラーパネルでいいし、バッテリーもガソリンスタンドでタダでもらえるらしい?(詳しく知りたい人は本を読んで)

 

そんな野暮な暮らしはできないと、思う人間もあるだろうが、あくまでこれは生存の一例として捉えればいい。家賃が5万かかることがデフォルトだと思い込む考え方を破壊できればいい。

 

私もいまは、生存実験をしている真っ最中である。5年前に教員を辞めてから、車や、原付テントで暮らし始め、八ヶ岳の麓の町で皿洗いの仕事をしていた。終いには、テント生活と言いながら、テントすら不要だと思うようになって、終盤は雪の上にそのままマットを敷いて寝ていた。雨や台風の日も、道の駅の屋根の下にマットを敷いた。そのほうが開放的で、星や月も見えて(雨の音も聞こえて)、よっぽどいいと当時は思っていた。

生存を考えはじめれば、生命は根源に向かう運命にある。生活に必要なものはどんどん削がれていく。今の住処の車は、持ち物の半分が本になった。小型冷蔵庫ももういらない。5kg2000円で売ってる玄米(と+アルファで適当な野菜)があればこれで1ヵ月、生存できてしまう。生存自体に、ほとんど金はかからない。つきつめていけば0円である。

 

もちろん、生存の問題だけが人生のすべてではない。生存の問題を考え、そこで哲学を編み出すからこそ、生命の活かし方(生活)に真剣に取り組めるのではないかということである。むしろ、私は生活にこそ人間が人間であることの意味があると信じている。

生存というと、生活保護とかホームレスとか、陰鬱なイメージがあるけれど、もっとポジティブな問題として考えていいんだ。

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