自分を赦すとか赦さないとか、誰かを赦すとか赦さないとか、そもそも人間は、自分で自分たちを裁けるほど完全な存在なのだろうか。
当たり前のように人を裁いてきたが、それこそが真の傲慢だったのだろうか。https://t.co/w28o2d7mvG— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) November 20, 2022
自分を当たり前のように裁いてきた。人も当たり前のように裁いてきた。お前は価値のない人間だ、ダメな人間だと、心無い言葉を放っては多くを傷をつけてきた。
自分が裁きの主であり、神であった。自分が神であることこそ、真の傲慢さだったのだろうか。
この疑問を着想に、もし本当に自分に人を裁く権利すらないのだとしたら、そもそもいつから自分のものだと錯覚していたのだろう。
裁く権利だけではない。この身体も、この感情も、この痛みも、この人生も、本当に自分のものだといえるのだろうか。
この世に”自分のもの”など、本当に存在するのだろうか。
自分のものではないのだとしたら誰のものだろう。
自分をつくった創造主のものだろうか。私はクリスチャンでもブディストでもムスリムでもなく、特定の神を信じてはいないが、私という存在の根源を辿れば、宇宙の向こうの偉大な力に今日の自分が誕生しているのではないか。
自分が神である大前提がひっくり返ろうとしている。
この感覚が現代では到底受け入れがたいことは百も承知である。お金が自分のものであることも、服が自分のものであることも、自分が自分のものであることも、人生が自分のものであることも、疑問を抱く以前に、当たり前すぎる感覚なのだ。
しかし同時に、現代の苦悩の大半は「自分のものにしたいが、自分のものにならない」という一点を発端としているようにも思う。今日も、自分のものにならないものを、自分のものにするために、苦悩しながら生きている。恋人を束縛し、人を都合の良い方向へ操作する。
「世界が自分のものになる」という前提の上に生きている。これもまた、真の傲慢から生まれた世界観かもしれない。
しかし世界が自分のものになる以前に、自分すら自分のものになりきらないのではないかというのが、今回の出発点である。これは瞑想の感覚に近い。瞑想していると自分の意志とは関係なく思考が生じ、勝手に消えていく。
新渡戸稲造の「武士道」の一節を紹介したい。
妻は夫のために自分を捨て、夫は主君のために自分を捨てる。そして主君は天の命に従う奉仕者であった。私はこの教えの弱点をよくわかっているつもりだ。キリスト教の優越性は、生きとし生ける者の誰もが、創造主に対して義務を負っている点にある。だが、それにもかかわらず、奉仕の精神──自分を犠牲にして高い目的に仕えるという精神であり、これこそキリスト教の最大の教えなのだが──これに関する限り、武士道は永遠の真理に基づいていたと言えるのではないか。
かつて魂の価値を重んじた武士道に生きた人間にとって、自分を犠牲にすることは当たり前だった。妻は夫のために、夫は主君のために、主君は天のために自分を捨てた。西郷隆盛も「敬天愛人」を座右銘としていた。天に自分を奉げることで人を愛した。国があって個人があった。
ゴミを拾う行為1つをとっても「私たちの世界を綺麗にしよう」というよりは「自分のものでないこの身体を世界に捧げよう」という方に近いと思う。滅私奉公の言葉のとおり、私を滅して魂に生きることに価値を見つけていた。
話はここに戻る。とりあえず今日の着地点を見つけたい。
自分が神となることは真の傲慢であり、「世界が自分のものになる」という前提の上に、日々苦悩している生がある。しかし、武士道に生きた日本人は、自分すら自分のものではないという感覚をもちながら生きていた。人を裁いていたのは自分ではなく武士道の魂だった。武士道精神のない人間は卑怯者、臆病者と裁かれた。キリスト教もそうだった。「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という言葉のように、人を裁き赦すのは主であった。
さて、最初の着想に戻りたい。この世に”自分のもの”など、本当に存在するのだろうか。
いくつか手掛かりは掴んだ気がするけれど、答えについてはもう少し寝かせたい。
精神修養 #65 (2h/138h)
自分で自分を裁くことの当たり前。自分が神の状態であるときは、良くも悪くも、すべてを引き受ける重荷のようなものがある。
しかし、この主導権を見えざる大きな力に任せたとき、痛みさえも自分のものではなくなるような気がした。
瞑想中に起こる足の痛みも、もはや私が自分でどうこうするものではなく、天がどうこうするというような感覚。
自分の所有が消え、運命についても与えられたものを生きるしかないという感覚。
言葉にするのが難しいけど、あれもこれも自分のものだと思っていたものが、自分のものではなくなって、自分の人生さえも、もはや自分のものではないのかもしれないと感じる。
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