スーパーカブのすすめ。風と共に鬱っ気は飛んで行く[201/1000]

軽バンで暮らす前は、スーパーカブで暮らしていた。スーパーカブといえば、郵便屋さんが乗り回している原付のイメージが強い。車と違って室内があるわけではないから、荷台に箱をくくりつけて、テントと寝袋を積み込み、道の駅とか森の中で1年くらい野宿して暮らしていた。1年経つ頃には、テントを建てることすら余分に感じて、マイナス10度の中、雪の上にマットと寝袋を直接敷いて、そのまま寝ていたのはいい記憶である。

 

私がスーパーカブに親近感をおぼえるのは、旅人根性のようなものを感じるからであった。スーパーカブは、燃費がよく、安くて丈夫である。中古のものを5万円くらいで買った。車検はなく、税金もほとんどかからないので維持費はないようなものである。50ccなので時速30kmが法定だが、状態のいいものは1リットルで100km走れる。(今の私の軽バンはリッター10kmほどなので、10倍走れる計算である。)ガソリンは、1リットル155~165円くらいなので、数百円で県を横断できてしまう。時間はかかるが、金はかからない。これが、カブに旅人根性を感じる一点であった。

 

実家に帰ってくる度に、数カ月動かしていなかったカブがちゃんと動くか確認する。案の定、バッテリーは上がっていて、ボタン一つでエンジンはかからなくなってしまった。車であれば、バッテリーを替えなければ使い物にならない状態であるが、カブの場合はエンジンボダンが使えなくてもキックスタートでエンジンはかけられてしまう。車体の右側についたペダルを力強く下に蹴り落とせば、踏み込んだ力がギアの回転を助け、エンジンがかかる。

数カ月放ったらかしにされていても、カブは動き続ける。日本中を駆け回っても、坂道で転倒しても、壊れることは一度もなかった。とにかく頑丈で、タフである。このタフさも旅人根性を感じる一因であった。

 

消極性は心身を分離させ、積極性は心身を一致させる。

朝目覚めた瞬間に、布団を蹴り飛ばして、寒さにぶつかっていければ、清々しく1日を始められる。しかし今朝はどうも消極的であった。布団からしぶしぶ出て瞑想を始めるもパッとせず、そのまま一日が動き出す。

 

午前に仕事を終えても憂鬱であったので、無性にバイクで風を切りたくなり、スーパーカブを始動させた。冬の冷たい風を切り裂いていく。知らない道へ、山道へ、住宅街へ、国道へ、畑へ、気の赴くままに自由に走らせる。カブを走らせながら、ドライブとはなんとも贅沢で傲慢な趣味なのだろうと思った。目的地はない。ただ一つの生命の憂さ晴らしのために、ガソリンを消費して地球を汚していく。ただ傲慢である。

時速30kmでノロノロ走っている真横を、大型トラックが猛スピードで通りすぎていくのは悪くない。小さな船で大海原を冒険しているような気持ちであった。自分が小さくなれば、相対的に世界は大きくなり冒険となる。地球を汚しながらも、悪いことをしている自覚がなかったのは久々に冒険を味わっていたからであろうか。風と共に鬱っ気は飛んで行く。

 

旅をいちばん象徴する自然は、風であるように思う。海でも山でも森でも星でもなく、風に吹かれるときが生を旅していることをいちばん実感する。

スーパーカブに乗ろう。風が吹かない時は風を吹かせに行こう。

精神修養 #112 (2h/231h)

一切の雑念も許容しないという心持でやらなければ意味がない。一つ考え事を許せば、その隙間から次々に考え事は入り込み、呼吸は置いてきぼりとなる。何となく座っても良い瞑想には絶対ならず、覚悟が必要である。

騒音は音の荒々しい塊である。スズムシやコオロギのように、美しいと感じる音は常に「流れ」であった。流れとは、宇宙の流れである。呼吸が宇宙の流れと一体となるとき、自分は消えて自然に溶け込んでいく。そこに音の塊がぶつかれば、流れは途切れ、現実に引き戻される。セミの声も、スズムシやコオロギの声も、木の葉が風に揺られ擦れる音も、すべてが恋しい。冬は孤独である。

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