自分が自分を赦す存在になることより、人間を赦す大きな存在のもとに生きるほうがずっと大事ではなかろうか。[639/1000]

国のために働くことと、社会や地域のために働くことは似ているようで別物である。国のために働くことは「義」であり、社会や地域のために働くことは「愛」である。今日「社会のため」「地域のため」とは言っても、「国のため」と言葉にするのは、保守的な情熱をもつ人間にかぎられる。

かわりに、今日は「家族のため」や「自分のため」を耳にする。自分のために生きることはエゴイズムの終着点であるが、結果として社会や国のためになっているのであれば、善として認められるようになりつつある。

たとえば、こんな理屈を耳にする。「成功して金を稼ぐ者は、金を稼がない者よりも、社会に益しているのだから立派である。」「金を持つ者は、金を持たぬ者より、国に税金をたくさん納めているのだから立派である。」いわゆる物質主義である。結果が社会や国のためになっているのであれば、その根本精神は問われることはない。だが、金を払っているからといって、レストランで店員に傲慢に振る舞う客がいたら、まともな人間であればそれが正しくないことだとはすぐ気づく。

 

エゴイズムは悪である。これは仏教やキリスト教の教えるところではないか。「神のため」「国のため」がなくなれば義が失われる。「社会のため」「家族のため」がなくなれば愛が失われる。そうして、「自分のため」の人生が待ち受けるが、自分のためにしか生きられない人生は虚無である。人間は義のなかから生の意義を見つけだし、愛のなかから生の豊穣を見つけだしてきた。自分のために生きた先に転がっているものは、空っぽの箱である。実態はあっても、ふたを開ければ空虚である。

 

エゴイズムを肯定し、自分のために生きればいいと開き直る声もある。これは、社会や家族や友人の目を気にして、縛られてきた人間にとって救いの言葉である。「自分を認めろ」「自分を赦せ」と彼らは言う。確かに聞こえはいい。だが、自分が自分を赦す存在になることよりも、人間を赦すより大きな存在のもとに生きるほうがずっと大事ではなかろうか。

なぜなら、自分とはどこまでも愚かだからである。自分とは過ちを犯しつづける存在だからである。そんな自分に、自分を赦す権利を与えるなど、どうして与えることができよう。そもそも、自分を赦せと他人に言う人間は、何の力があって「自分を赦せ」と赦す権利を授けるのだろう。ブッタやイエスのような聖人だというのだろうか。

エゴイズムの行末は無気力である。無気力に赦されるよりも、力のもとに赦しを乞うほうが、ずっと人間らしいと思うのだ。堕落した人間とて、自分のためにしか生きられないことを恥ることのほうが、ずっと人間らしいと思うのだ。私は何よりも人間と力を賛美したいのだ。人間でありつづけたいと願うのだ。

 

2024.3.19

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