インド旅を終えて日本に帰ってきた。ずいぶん長いこと向こうにいた感覚であるが、友に帰還を伝えると「もう帰ってきたんだね」と返事がきた。私にとっては1ヵ月の重みがずっしりとある今回の旅も、現実時間のカレンダーでは2週間にも及ばない長さだった。
平均して、1日は2日分の時の重みをもったまま、私の記憶に蓄積したことになる。これは私が、旅に一定の信頼を置く理由である。旅は時間の扱いを弁えており、時間に相応の重みを与えてくれることが経験上多い。逆に、1ヵ月旅をしていたとしても、2週間に満たない時の重みしか記憶されなければ、2週間分の時はどこかに失われたことになる。楽しい時間ほどあっという間にすぎるものだが、その内実が虚飾であり、あっという間にすぎすぎてしまうものほど、そっくりそのまま虚無に堕ちやすいとも考えることができる。
見方を変えれば、2倍の時を生きた人間は、2倍の速度で老いるともいえる。だが、不思議なことに2倍の時を生きるときほど、人間は元気であることの方が多い。逆に時間をごっそり虚無に奪われてしまう日々を過ごすときほど、身体は脆弱状態にある。2倍の時間を生きるには、身体は2倍に耐えるだけの活性を必要とするし、2分の1しか生きない場合は、時に耐える力を眠らせたままでよい。
濃密な時間を過ごしたほうが、人生は充足しそうな気もするが、こうした時間の長短の感覚は、長期的に見ればある程度は等倍になるよう帳尻が合わされていく気もする。例えば、濃密な時間を過ごしているように見える旅人も、旅疲れした者は、宿で何週間も何カ月も沈没する現象がみられるし、そうでなくともペースを緩めてのんびりと過ごす旅人は珍しくない。
2日分の時の重みを1日で生きれば、その分身体に負荷がかかる。つまり、疲れる。ある者はこれを「心が体に追いつかない」と表現する。時間に生じた心身のズレを、「休む」と「働く」のバランスを取ることによって本来の時間周期に戻そうとする。これは健全な感覚だと思う。時間に置いていかれることも時間を置いていくこともストレスである。
それでも、やはり濃密な時間を過ごす人生は充足していると言えよう。なぜなら、時間感覚に長けた人間は、体を休めるにも多くを休むからである。
多かれ少なかれ、誰にでも時間の重みに波を抱えているのではなかろうか。そして、われわれはこの波を愛すべきではなかろうか。1日を1日の時間感覚として、同じ波長に生きつづけるには、生活はあまりにも安定しすぎ、退屈である。生命が躍動するためには、1分間に打つ拍動が増えるように、時間感覚は自ずと強まる必要があり、時間感覚が活性化されるほど、時間を粗末に扱うこともなくなっていく。
旅に出たい衝動とは、同じ速度で秒針が叩かれる生活を破壊し、時間の超越をもくろむものだ。時間感覚を強めることが生命的に善といえるのは、時間が神から与えられた神的組織の一部であり、時間を問いただすことが己を問うことに通ずるからであろう。
2024.3.14
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