素朴と洗練【インド紀行⑥】[621/1000]

旅は旅行に対して素朴なものである。しかし、旅人が必ずしも素朴かと問われれば、決してそんなことはない。しかし、旅を通して洗練されすぎた旅人が、素朴な感性に立ち返っていくことはしばしば起こりうる。

 

素朴なものは中心にある。外側を幾層にも覆う形で、洗練されたものがある。ゆえに、異国から足を踏み入れた旅人は、まずは洗練されたものを体験する。これはいわゆる、観光客用にオブラージュされたもので、大体の場合、金がかかるものだ。私がインドの洗礼を受け、法外な金を失ったのも、この領域の話である。これを”インドの入場料”と表現してみたのも、深く内側へ、素朴な中心へと、入り込んでいくために避けられない痛みのようなものだったからである。真実を欲する人間は、こうした表面的な傷みを越えて行かなければならない。旅人はそうして素朴に立ち返る。

 

素朴なものは文化である。もし、洗練されたものが、内側の内側まで浸食すれば、その国から文化は失われていく。すべてが洗練されれば、綺麗で快適な国となるが、同時に神を失い、虚無が支配する。素朴なものは、時に暗く、苦労のかかるものであるが、内実は文化の基礎であり、結晶である。

 

いつの時代も、若者とは洗練されたものであり、年寄りは素朴な存在であった。われわれが年寄りを敬い、学ばせてもらっていたのは、素朴な慣習だ。似た対比をいえば、いつの時代も都会とは洗練された場所であり、田舎とは素朴であった。私はインドの首都であるデリーにいる。これからバラナシへ行き、ブッタが悟りを開いたブッタガヤに行けば、さらにインドの文化に触れることができるだろう。

 

バックパッカーの聖地と言われる、タイはバンコクのカオサンロードと似たようなものに、デリーにはメインバザールという大きな通りがある。どちらも観光地化が起こっており、値段も高騰しつつあるようだ。素朴は洗練されたものに、簡単にとって代わられる。同じデリーでも中心から少し外側に歩くだけで、人の感じも料理の価格も、ずっと安くなるのは面白い。

 

若者は洗練されていると言ったが、少年や少女は素朴だ。何もない草原を、ただ走り回ることだけに幸福を感じられる、美しい存在だ。われわれ大人に義務があるとすれば、少年少女の素朴さを守ることではなかろうか。洗練されたものを与え、歓喜と同時に、空虚を植え付けるのではなく、素朴なものの中に、文化と力を育てるべきではなかろうか。

 

メインバザールを歩いていると、ある少女と目が合った。少女は恥ずかしそうに笑うと、歩く私の前へ行き、汚い地面に手を付けて、二度、ハンドスプリングを披露した。すぐに、この少女はこうして金を稼いでいると知った。汚いゴミが転がるアスファルトで裸足で芸を披露していたのだ。「オンリー2ルピー」という少女の手は黒く汚れていた。私はその手にコインを乗せると、少女は次の客めがけて去っていった。商売慣れした少女であったが、その手は小さく、素朴な手だった。

 

2024.3.2

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