人間を人間に導くもの【インド紀行①】[616/1000]

2024年2月26日 インド旅立ち1日前

もし魂を定義するなら、君は何というだろう。僕は今日、久しぶりに俗世の堕落という堕落を垣間見た気がした。堕落を堕落と思わなくなること、堕落の概念が喪失し、上も下もなくなること、これは魂の危機だ。なぜなら、魂とは、堕ち行く重力にひれ伏しそうになる肉体を日常圏外へ連れ出そうとする父の手みたいなものだろう?この父の手をなんとか握りしめようと、僕たちは頑張るんだ。

今朝はどうも、電車のおぞましい風景にやられてしまった。スマホに眺め入る姿はどうも苦手だ。正直な感想をいえば、この5年10年で、電子機器は飛躍するにつれ、僕たちはすっかり堕落していないだろうか。もちろん、僕は電脳空間を悪だと言うつもりはない。実際、僕もまた電脳空間に救われた人間の一人だ。ただ、洗練されたものに気を赦せば、簡単にもっていかれてしまう。時間の濾過が及ばないものには、神の加護も行き届いておらず、悪魔の手に染められているのだから。逆にいえば、人間を人間に導くものは、神の加護だと言ってもいい。

 

総じて、名古屋から関西空港までの5時間の鈍行列車の旅は、ひっとときも退屈することがなかった。車窓からの景色は、十分に味わい尽くす前に後ろへと流れていってしまうし、森から出て初めてみる街の人間は、彼らの一挙手一投足が、想像と感心を注ぐに足る対象だった。女性の化粧ひとつとっても、知識も技術も財力も経験もある中年のお姉さまは、惚れ惚れするほどかっこよく、金も心得もない少女たちは、せっかくの良い素材を台無しにしているように思われた。

つい先ほど、洗練されすぎたものには警戒することを書き留めたばかりだけど、洗練されたものを自分の弁えのうちに物にすることができた人間を、「嗜みがある」と言うことができるだろう。

 

そうして、つい先ほど関西空港に着いた。インド行きの飛行機は明朝だから、今晩はここで野宿をすることになる。名古屋ではなく関西から発つのは、金のない僕には仕方のないことだった。でも心配しないでくれ。さっきは、母が持たせてくれた昆布のおむすびを5つも平らげた。明日の朝ごはんの分まで食べてしまうくらい身体は元気だ。明日からも毎日、君に手紙を書こう。まあ無事を祈っておいてくれ。感情には溺れまい。きっとまた会おう。ではまた。

 

2024.2.26

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