自分の命の価値くらい自分で決める[133/1000]

外を見れば見るほど自分が小さくなって、内を見れば見るほど自分が大きくなる。

どれが一体、自分の本当の大きさなのか分からなくなるようなこの感覚に直面するとき、私はいつも途方に暮れてしまう。そしてもう自惚れで傷つきたくないと無意識に自分を戒める力が働いて、自分を必要以上に小さくし、その反動として自己卑下に直面する。

「お前は価値のない人間だ」という言葉のシャワーを無抵抗に浴び続ける私はただ疲弊しながら、この不毛な時間に閉じ込められるような感覚に、やり場のない不安を感じている。

 

物質主義の上でこのことを考えれば、私は約1億2500万人の日本人のうちのたった1人でしかない。宇宙がひっくり返らない限りは、時代に爪痕を残すこともないまま、儚い命として朽ちていく。そう考えると、私はとても小さな人間である。もはや世界に存在していることすらも何の意味もない。

「お前は価値がない」という自己卑下も、突き詰めていけば、ここに辿り着く。物質の上で自分を考えれば、目に見える形で世界に貢献しなければ、人間としての価値はなくなってしまう。

 

これを人間の客観的な価値とするなら、主観的な価値も存在する。

私が最近読んでいる葉隠はその1つだ。運命を受け入れて命を燃焼できるかどうかが、それが人間にとって絶対的な価値だと葉隠は言っている(のだと思う)。将軍だろうと武士道に反すれば愚将とみなされたし、歩兵だろうと武士道を貫徹すれば名誉ある軍人だと讃えられた。何億人という人の中で価値はなくとも、徳に基づく行いによって価値のある「私」となりうるのだ。

 

ただ覚えておきたいのは、どちらか一方の価値を追求するということではなく、肉体で生きる以上、客観的な価値と主観的な価値は、絶えず交差している。自分の命を燃焼した結果、誰かの役に立つことはあるし、誰かの役に立とうとした結果、命を燃焼できることもある。

私は愛や友情含め、魂の鍛錬に価値を見つけている。ただ、この精神的な営みも、「仕事」のような肉体の行為がなければ、体現できないと感じている。人間の魂が、肉体という器がなければ、自己を認識することもできないのと同じように、主観と客観は、常に切り離せない関係にある。

 

物質界を見つめることなくしては何も成し得ないから、ちゃんと世界で起きているそのままを見よう。ただし、目に見えるものの数や、誰かの言動に触れたとき、自分を小さく見る必要は一切ない。(もちろん大きく見るのも違う)

・目に見える数に惑わさなれないこと

・魂の価値に絶対的な信頼を持つこと

・損をすることや、不幸になること、苦悩に惑わされないこと。

・常に死に向かって、命の燃焼に狂うこと

 

自分の命の価値くらい自分で決める。以上、引きつづき修行に励もう。

 

精神修養 #42 (2h/94h)

次々に現れる思考が欲望によって固められていることを知る度に、自分の卑しさを目の当たりにしている。欲望だと認識できているときはまだしも、その欲望に心を奪われて、入り浸っているような状態になることもある。そこまでいけば卑しいというより惨めだ。今この瞬間から逃げ出して、ありもしない幻想を貪っているのだから。

 

[夕の瞑想]

お昼ご飯を食べた後は、眠くなるというのが社会の大部分で共有される通説だけど、本当のところはお昼ご飯を食べなくても人間は眠くなることを、1日1食で知った。お昼を食べなくとも12時くらいになると、身体が眠りを欲する。お昼ごろ眠くなるのは、人間の1日における周期だと思うようになった。

私は眠気を無視して無理やり動き続けると、偏頭痛を発症しがちな体質で今日もそれが起きた。少し昼寝をしようと思いながら、ふと、何となく瞑想が眠りの代わりになるような気がして、瞑想をしたところ、思惑通り、偏頭痛も消えていた。

 

瞑想の科学的な力というものは、私には説明できないけど、昨日書いたように「人間は反応しているとき、無意識のうちに身体に負荷を蓄積させている」ことを知った。つまり、反応的にならないこと、即ち、瞑想をして身体の状態に気づくことには、修復作用が働いているような気がしてならないのだ。直感的な話になるが、瞑想状態と睡眠状態には共通するものがある気がする。

人間は起きている間は自己を破壊し、眠る間に修復する生き物なのかな。

 

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