覚悟は言葉ではなく、行動によって認められる。
こうして毎日言葉を残すことに躊躇いを感じている。躊躇いを感じ、あるところでは言葉の節にあらわれる虚栄心に恥を認めながら、それでも言葉を残すことを選ぶ。言葉を残すことをやめれば、恥は回避できるかもしれないが、同時に迫られる行動の重圧からも解放され、自己の葛藤は幕を閉じる。葛藤が日々の修行でありながら、自分への挑戦となる。
執行草舟氏の「超葉隠論」にこんな言葉があった。
「覚悟は、自己の肉体と自己の魂との対話であり、また対決となるだろう。この対決が、無限の孤独の中で進行していくのだ。」
いい言葉に出会った。この28年間、肉体と魂がぶつかりあってきた。肉体は欲望を求め、魂は憧れを求めた。肉体は快楽を欲し、魂は苦悩を欲した。生にしがみつこうとする肉体と、死ぬかもしれないが突き進みたいという精神が葛藤しながら、今日まで生きてきた。それが言葉となってここにある。
葉隠を生きるには、覚悟がいる。肉体の私は怯えて、魂の私は憧れている。
目に見える物質を中心に生きるのを辞めて、目に見えない精神を中心に生きるということは、物質が中心となった現代では茨の道である。しかし武士をはじめ、一昔前は、精神を重んずる生き方は当たり前だった。葉隠の一句に「同じ人間が、誰に劣り申すべきや」とある。昔の人間にできたことが今日の人間にできないわけがない。
精神修養 #31 (2h/72h)
恐怖、安心、不安、悲しみ、怒り、困惑、疲労。もっとも言葉に置き換えのは頭であるが、色んな感情が胸の内をごっちゃに渦巻く感覚を、ただ感じていた。ちゃんと死ねたかは分からないが、少なくとも感情が生じているのは懸命に生きれた証だろうか。
目を閉じて真っ暗で、呼吸だけの世界にいる。すると、本当に大切にしたいことを思い出せる。目を開けている間は、色んなことが気になる。目を開けているときの自分は、肉体の自分。肉体の自分はやっぱり死ぬことが怖い。色んな事を気にしては、憂いを帯びる。
瞑想は、肉体の自分から離れ、精神の自分に近づくことができる。その橋渡しが瞑想である。精神体でいられるとき、このまま死んでも後悔しないかと道を示してくれる。目を閉じれば必ずしも精神体になれるわけではない。瞑想しながらも、思考や感情に振り回されているうちは、まだ肉体の自分である。
死を選ぶことができた葉隠武士は、精神の存在だったと言える。物質(肉体)が中心ではなく、見えないものの価値を信じ、その価値を生きた。これが動物との違い、人間が人間として誇れる真の姿かもしれない。
葉隠の実践は、葛藤しながらの道になる。この瞬間も、苦しいが、苦しさの奥を冷静に見つめれば、命はちゃんと燃焼している。この感覚を忘れないこと。深くを深くを見つづけること。
一度は挫折したこの道を、もう一度進んでいく。精神の自分を歩み始めた今、再びあなたとも繋がれる気がする。
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