他人と勝負している暇なんてない。自分との勝負に命を懸ける[121/1000]

幸せじゃないことも、一人ぼっちなことも、誰かに劣っていることも、才能がないことも、恥じる必要はないんだよ。本当に恥ずべきことは、命を燃やせないことだ。死ぬべきときに、死ねないことだ。

他人と勝負している暇なんてない。自分との勝負に命を懸ける。

 

長野は富士見にいる。今日は午後から山を見に行くので、午前中に書き上げたい。

葉隠に感銘を受け、何をするにも、死ぬことを考える。「武士道とは死ぬことと見つけたり」は有名な一句で、これを1つずつ自分の行動に置き換えていく。仕事とは死ぬことと見つけたり、言葉を書くとは死ぬことと見つけたり、瞑想とは死ぬことと見つけたり、書を読むとは死ぬことと見つけたり、食事とは死ぬことと見つけたり。歩くとは死ぬことと見つけたり。演奏とは死ぬことと見つけたり。人と話すとは死ぬことと見つけたり。友と遊ぶとは死ぬことと見つけたり。ぼーっとするとは死ぬことと見つけたり。スマホを眺めるとは死ぬことと見つけたり。

 

そんな心構えでいながらも、果たして私は死ねているのかという問にぶつかる。言葉では「命を燃やす」とか「思いっきりぶつかる」とか言い切ることは簡単でも、「死ねたか?」に対する評価は「やり切った感」や「燃え尽きた感」という主観的な指標しかない。

ここが難しい。「よし俺は今死にきれたぞ」と内省しても、「いやもっと死ねたはずだ」と言う自分もいる。主観だからこそ、自分を誤魔化すことはできず、どれだけ死ねるかは自分の器量がそのまま表れていく。

 

だから実践しながらも、自分を磨くしかない。誤魔化そうとする自分に気づいて、誤魔化さないようにするしかない。

死に際の老人の9割が「もっと冒険しておけばよかった」と話したという。冒険するとは、死に向かえた経験のことをいう。自分を磨かなければ、死に向かうことはできない。卑怯な自分を認めないと、命は燃えていかない。

まだまだ修養が足りぬ。

 

精神修養 #30 (2h/70h)

滅私奉公の「私」とは何か。

白湯を3杯飲んだこともあって、瞑想中、用を足したくなる。1時間は目を開けず、座り続けると意志を据えていたので、用を足しにいこうと、あれこれ口実をつくる「私」を、ただここに感じていた。「私」が瞑想を中断させようとしても、呼吸に意識を戻しつづける。

結果的に、いい瞑想となった。体感で分かるほど心が静まっている。山ごもりをして、甘いものを絶った時の瞑想も、「私」が暴れ続けたが、呼吸に集中し波を越えると、一皮むけた感覚があった。

どんな形であれ「私」が出てきたときは、意識の集中を一段階研ぎ澄ます、絶好の機会であり、同時に試練の場であると感じる。

 

[夕の瞑想]

瞑想とは死ぬことと見つけたりの精神で、夕の瞑想に励む。1時間の瞑想をすれば、当然寿命としては1時間、死に近づいたわけであるが、心持ちとしては1時間の瞑想を終えたときに死ぬくらいの覚悟で座りたい。

瞑想においてどのくらい集中できるかは意志の強さにかかっている。しかし、日常において意志を持ち続け、実践することは同等かそれ以上の価値があると感じている。未来を先取りして憂いをもつことや、必要以上に気晴らしに時間を使うことは避けたい。生じる思考に惑わされず、心の輪郭を鮮明に保つこと。

瞑想はあくまで練習であり、瞑想外の時間こそが本番。

 

今朝、諏訪湖で朝を迎えたとき、風が冷たかった。雨を越えて、一気に冬が近づいたようだ。

私は冬物の服を着こんで身体を温めたが、小学生くらいの女の子は、薄着のままキャッキャキャッキャと元気に跳ねていた。女の子を見ながら、純粋なまま死に向かっているのを感じた。

以前、子供と川遊びをしたときのことを思い出した。私は寒さに「これ以上は死ぬ」と早々に火にあたりに行ったが、子供は寒い寒いと言いながらも、ずっと川遊びをしていた。

 

こないだも今朝も、私は寒さに死にきれず、子供はその瞬間に、命を燃やしていた。

なぜ私は暖をとりにいったか。寒ければ風邪をひいて体調を崩すと思ったからだった。なぜ体調を崩すことを嫌がったか。体調を崩せば生活や仕事に支障が出ると思ったからだった。なぜ生活や仕事に支障が出ることを嫌がったか。寝込んで仕事を休むことになれば、人からの評価が落ちるからだった。

私は先の損得を無意識のうちに勘定していた。子供には損得勘定がない。寒くても「このまま遊んでたら、風邪をひいて、明日学校を休んだら、友達や先生にまた何か言われて、勉強の成績も落ちて、進学もできず、将来ダメになる」とか考えない。

 

葉隠でも、損得勘定について言及されている。「死=損」「生=得」であるから、損得勘定に縛られているかぎりは、死に向かうことができない。

私には今朝のような損得勘定が、無意識のレベルに浸透している。このあたりも含め、精神修養することが大きな課題。「何をもって死ねたというのか」についても主観的な指標でもいいから、自分の言葉にしたい。

 

葉隠の探求と実践はまだまだつづく。

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