自分を死なせるとか物騒なこと書いて申し訳ない④[184/1000]

自分を死なせるとは、自分が宇宙の中心にいるという認識を捨てること。宇宙の中心にあるのは恋の対象で、恋の対象を中心に自分は存在しているに過ぎないと認識すること。言い換えれば、自分を神の座から引きずりおろし、恋焦がれる対象のために生きること。

これは、今日言われる”自分の人生の主人公は自分”という言葉を否定している。恋焦がれる対象を中心に宇宙は存在し、自分は脇役にも満たない小さく仕える存在でしかない。自分が対象に仕え、対象と合わさるように生きる状態を、仕合せという(のだと思う)。肉体的な幸せは自分が生きていても享受できるが、自分を死なせなければ仕合すことはできない。

 

マタイ福音書10章で「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」とキリストは言う。自分を死なせる覚悟がなければ、法に仕えることなどできない。故に自分が肥大化した人間にとっては剣で斬られるような厳しさがキリストによってもたらされた。

「人を相手にせず天を相手にせよ」という西郷隆盛の言葉も、自分ではなく天に仕えよの意味だと受け取っている。西郷隆盛は時間があれば山を好んで歩いたと言われている。孤独の中に天を見つめ、天と言葉を交わしていた姿をいつも想像する。

 

自分の感情をいちいち騒ぎ立てないことも、寒さにも暑さにも飢えにも屈しないことも、自分のことなど大した問題ではなくなる。質素倹約が美徳とされたのは、自分を死なせることで、恋焦がれる対象と一体となることを選んだから。生を現世的な肉体としてではなく、永久的な魂の問題として捉えたからできたことだった。

 

小淵沢で家なし生活していたとき、毎日のように宮沢賢治の”雨にも負けず”に励まされた。今改めてこの詩を読み返すと、この詩に救われていた理由がよく分かる。自分を死なせ、法に仕え、純粋の一点を極めた、仕合せの詩だったからだった。透明な魂を感じるからだった。

雨にも負けず 宮沢賢治

 

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだを持ち

欲は無く

決して瞋からず

何時も静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆる事を自分を勘定に入れずに

良く見聞きし判り

そして忘れず

野原の松の林の影の

小さな萱葺きの小屋に居て

東に病気の子供あれば 行って看病してやり

西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を背負い

南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくても良いと言い

北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い

日照りのときは涙を流し

寒さの夏はオロオロ歩き

皆にデクノボーと呼ばれ

誉められもせず苦にもされず

そういう者に

私はなりたい

 

精神修養 #95 (2h/198h)

大切な思い出が蘇るほど、心は温かくなる。そんな自分を死なせようなど野蛮な気もしてしまう。しかし愛されたと思うなら、なおさら死ななきゃならないと思う。自分を犠牲にして良くしてくれた人間の情を受け取ったのなら、同じように自分を犠牲にして、人に尽くしたいと思う。これまで出会った人たちも、きっと裏では同じように自分を厳しく律していたのだと想像する。

 

[夕の瞑想]

社会の不条理にいちいち傷ついては悲しくなる。悲しみはいつも死にたがっている。死ねずに亡霊となれば、心を彷徨いつづける。死身になる安心はここにある。変な言い方だけど、死なせてやる安堵がある。

日中は生きるほうに傾きやすく、死ぬ時間は意図しなければ生まれない。毎朝毎夕、改めては死んで、改めては死んでも、生きる時間が圧倒的に多い。陰陽にバランスがあるとするなら、死に不十分さを感じている。

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