身体は疲れやすく、心は傷つきやすい。脆い器に生きている。丈夫な器が欲しいと何度も願った。丈夫なもののほうが優れていると教えられた。しかし魂の視点を持つときは、この脆ささえも愛おしくなる。もし絶対に割れることも壊れることもない器であれば、愛おしさは生まれない。
器など所詮、宇宙からの借り物にすぎない。現世を体験し終えたら、燃やされ灰となり煙となり骨となる。どんな器もこの法からは逃れられない。法により器が燃えるとき、疲れも傷も全部燃えていく。今日の傷も疲労も例外なく、燃えていく。
「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦しみて暮らすは愚かな事なり。」と山本常朝は言う。
今日を終えたとき今日の自分は死に夢の中に還っていく。どうやって生きても等しく死んでいく。https://t.co/V5U5iSQYvJ
— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) November 17, 2022
武士は、今日死んでもいいように日々身なりを整えた。爪を切り、髷(まげ)を整え、刀を錆びつかせないように手入れした。前日の酒の酔いで顔色が悪ければ、忍ばせていた紅粉で化粧をしろと葉隠に書かれている。それほど外見に気を遣っていた。女にとっての鏡が化粧の道具なら、男にとっての鏡は卑しくないかを知る反省の材料だった。
一方で葉隠には「毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身となる」という言葉もある。器を整えながら、器を死身とした。ここに葉隠のスピリチュアリティを感じる。肉体としての器は殺しても、魂としての器は生きたということ。つまり器が先にあって魂が後にあるのではなく、魂が先にあって器が後にあった。過分に飾ることも、みすぼらしくなることも是とせず、宇宙から与えられた自然そのままの造形を立派に保つことに、美徳を置いていたように感じる。
美術館に展示されている裸体の女性の絵やギリシャ彫刻の男性の裸体を見ても、エロティシズムを感じるより、神秘的な美しさを感じる経験は多くの人にあると思う。あれは器よりも魂が先にあったからだと思う。だから裸体に神聖さを纏っていた。この神聖さは、器が先にある時に失われるものだと思う。葉隠はその生まれながらに備えた美しさを、日本人のやり方で保とうとしていたように思う。
魂が先にあるとき、見栄によって身なりが整うのではなく、威厳によって身なりが整う。うまくまとまらないけど、何だかとても大きな、魂の威厳にぶつかった感触だけがある。
精神修養 #80 (2h/168h)
緊張も不安も安堵も、還るものはすべて宇宙に還していく。そうして残るものは、凍てついた指先の感覚と、寒さに震える身体。静かな呼吸。それに気づいている自分。
現実とは、変えようとしても変わらないもののことをいうのかな。思考も感情も、現実のものに思えるが、変えようと思って、変わってしまうという点では非現実的なものであるといえる。日中、一体どれほど非現実的な世界を生きているのだろう。
[夕の瞑想]
この身体の心は傷つきやすく、溜めこみやすい。傷を自分のものだと思い込む。しかしこの傷も、冷たい風に吹かれるのと同じようなもの。風は吹き付け冷たさは残るが、そのまま通りすぎて行く。
痛みは確かにここにあるが、これは人類の痛みであり、宇宙の痛みでもある。それを知った時、痛みは宇宙に還っていく。肉体が退けようとする緊張や恐れも、宇宙に還さなくてはならないのだと思うと、なんとも愛おしく思えないか。
善のふりをした悪があるように、与えるふりをしながら奪うこともある。
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