熱海の海岸にいる。
海がどうしても見たくなり、今朝熱海に行くことを決めた。
大自然に訪れたくなるのは、自分の身の程を整えたいからだと思う。
旅でわざわざ人気のない大自然を訪れるのは、自分の「小ささ」を確かめたいのだと思う。普通に生きてると、自分の大きさが分からなくなる。
本当はすごく小さいのに、大きなものだと錯覚して、勝手に苦しくなる。
ボクは圧倒的な大自然を前にして、自分の身の程を整えたい。— とむ(日本一周テント生活) (@tomtombread) June 11, 2019
普通に生きてれば、人は調子に乗る。
SNSで「いいね」をたくさんもらえたり、仕事でどんどん結果が出たり、褒められたり、人付き合いがうまくいったりすると、
「私ってすごいじゃん。」とおごり高くなる。
反対に、SNSの反応が薄かったり、仕事がうまくいかなかったり、人付き合いが悪くなったりすると、
「私ってダメじゃん。」と自分を責めてしまう。
一般的に「調子に乗るな」という言葉は、うまく行っている人に向けた嫉妬として使われる。
けれどボクは、
自分を責めて落ちているときに「調子に乗るな」
と言いたい。
1 「調子に乗るな」と責める自分に言う大切さ
自分を責めるのは、「自分は強い」とおごり高くなっているから。
自分を責めるなんて、調子に乗るな。
今朝、自分を責めている自分がいた。
ボクが熱海に来たのは、
お前は自分を責められるほど、「強い人間」なのか?
調子に乗るな。この大きな海を見て、己の弱さを自覚しろ。
と問いただしたかったのだと思う。
人が誰かを責めるときは、きまって「傲慢な人間」になっている。
それは、自分を責めているときも同じ。
自分が弱い人間であると受け入れれば、自分を責めることや、誰かを責めることなんて、おこがましくてできないはずだから。
他人を責めることを始めれば、
自分を責めることも自動的に始まる。
これもまた、人間の弱さ。
先日こんな記事を書きました。
ボクは今、ずっと傲慢に生きてきた自分を恥じ、そんな自分の罪を償うために旅をしています。
けど昨日、近しい友人と出会ったことで、甘えて、色んな期待をしてしまい、気づけば彼を責めていました。
傲慢な自分が再び、顔を出したのです。
熱海の海に来たのは、なんとなくだけれど、知らない土地の大きな海を前にすれば、自分の弱さを直視できると思ったから。
- 大きな海の前に、ただ立つことしかできない自分
- 真っ暗の浜辺で寝る怖さ
- 海は何も見えなくて、「もし津波が来たら…」と恐怖におそわれる
- 「一人だ、誰かと話したい。」と思っても、海岸にいるのは自分一人
- 何かを食べようにも、人に頼るしかない
やっぱり1人になって1日過ごしてみると、「調子に乗ってた自分」が、だんだんと素直になってきて、
しまいには「はい、調子に乗ってました。すみませんでした。」って頭を下げてきました。
不思議なことに、その瞬間から、優しさがグッとこみ上げてきて、昨日の友人や、生きている全ての人に尊敬の念がわいてきた。
ああ、傲慢さがちょっと溶けたって…..人間の面白さを感じました。
2 「調子に乗るな」と自分を戒めつづける
生きていれば、どれだけでも傲慢な自分は出てくる。
だから、その都度「調子に乗るなよ」って自分の身の程を確かめたい。
今朝読んだ、教育哲学の本に『人間が、ほかの動物と違うところは「自覚」する力が優れているかだ』って書いてあった。
たしかに、その通りなんだけれど、「傲慢な自分」を自覚することってすごく大変。
ボクは「弱い人間」であることを自覚しつづけたいって思う。
大金持ちになったとしても、パートナーが何人もできたとしても、世界的な名声を得れたとしても、
「これは、これから何年先も絶対に忘れちゃだめな(忘れたくない)ことだ」って感じる。
ボクは「教えること」や「教えられること」がちょっと苦手…
「教えて」と言われた場合は教えるし、教えられたときは話は聞くのだけれど、
頼んでも頼まれてもいないのに、身勝手に教えようとするときは、相手を下に見てしまっているからだと思う。
そんな自分が現れたときは、「調子に乗るなよ」って傲慢な自分を打ち溶かしたい。
それよりも、対等でフラットな関係でいたい。
年齢も性別も、どんな人生をおくってきたかも関係なしに、人と人として話し合える関係。
己の身の程を知った謙虚な関係性って、本当に心の支えになるし、すごく美しいものだって思う。
3 「調子に乗るな」と伝えるための自然の孤独
人はどこまでも調子に乗る。
そんな時は大きな自然で一人で孤独を味わう。
瞑想合宿に参加したとき、「俗世間に生きることが一番の修行だ」って言葉をいただいた。
普通に生きてれば、人は傲慢になってしまう。
自分や他人を責めてしまう。
そんな時は、大自然の中に、1人静かに身を置いてみることだと思う。
大きな海でも、山の中でもよくて、孤独を感じつづけてみる。
自然の中に一人でいると、段々と「自分の弱さ」があらわになってくるのね。
最初はそんな「弱い自分」を認めようとしないんだけれど、それでもそこに身を置き続けてみるの。
それでも、やっぱり何もできない。
けれどまだ、「弱い自分」なんて認めたくなくて、自分は受け入れようとしないんだけれど…..
やっぱり大したことはできない。
それでもまだ傲慢な自分は、自分が弱いなんて認めたくなくて、もがき苦しむのだけれど、
やっぱり何もできない。
こうやって自分との葛藤を繰り返すうちに、人は謙虚になっていって、だんだんと自分の弱さに気づいていくと思う。
入ったことないから分からないけれど、刑務所の服役なんかも、まさにこれじゃないかなって。
自然は「癒し」っていうよね。
いっぱんてきに、この「癒し」はリフレッシュの意味でつかわれる。
街の喧騒から離れて、静かな場所で新鮮な空気を吸って開放的になろうって。
それも悪くないんだけれど、
本当の自然って、もっと厳しいものである気がする
地震とか火山とか津波とか台風とか雷雨とか、どれだけ文明が発達した今でも、人間では自然の力にはかなわない。
ときには、自然を前に命を落としてしまうこともある。
そんな計り知れないくらいの自然を前にすると、「調子に乗ってすみませんでした」って言葉しかボクは出てこないんだ。
そして、だからこそ何気ない日常や、身近な大切な人に「ありがとうございます」って言うことができるって思うの。
今は伊豆半島の南端に向かって海沿いを走ってる。
大きな海を前にして、そんなことを感じるのでした。
とても胸に響きました。ありがとうございます。