お前たちは私一人の子ではない、御仏様の子だ、お国の宝だ。[997/1000]

生れた時から今日まで私の上にそそがれた涙はどれほどであっただろうか、とても私では計りきれない。幼き時からお母さんの思い出を綴って見よう。私はよく医者へ連れてゆかれたものだった。父なきあとの貧乏暮らしであるのに、お前たちは私一人の子ではない、御仏様の子だ、お国の宝だと私たちの体には特に心をくばられて下さった。父なきあとひがませてはいけないと随分御無理をなされたお母さんだった。とりわけ私が中学に入学した時だった。洋服を新調して下さるというので、ある晩お母さんに連れられて街へ出かけた私は繁華な通りへゆくものと思っていた。街の美しい灯が見えだしてようやく本通りの入口についた時、どうしたのかお母さんは街のうす暗い小路に足を運んでゆかれた。不審ながら私もつづいて行った。今でもはっきり記憶している。それは、新古品の洋服を売っているにはいられ、私に合うように色々上衣をきせられ、少々だぶつく小倉服を買われた。しかもお金は後でお払いしますと店主に何度も何度もいわれて店を出た。………

「きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記」

今の私はそこらの学生より稼ぎがない。恥ずかしながらそれほど社会の役に立てていない状態だが、飯をなんとか食うことはできる。物が絶対的に不足していた昔の貧乏と比べれば、今日は生活に必要な物品の供給が需要を上回っている。甘いものを食わぬと決め、菓子類などの嗜好品はいっさい買わなくなった私は、米と肉魚があれば肉体の健康も、魂の健康も損なうことなく、元気に生きていけることを知った。これにかかる月々の金は、玄米十キロ七千円と肉魚三千円である。毎日スーパーに行って、一匹百円のイワシか小さな鶏・豚肉だけを買ってくるのである。野菜は畑から貰っているが、仮に野菜を買わなければならなかったとしても、一万と五千円もあれば足りるだろう。

 

かつてのような貧乏はなくても、貧困は増えたかもしれない。漢字が一字違うだけでずいぶん意味は変わる。依存性のある小麦や菓子類、油物や乳製品を常食していれば、金はますますかかるばかりか、体も心も健康を崩し、散財が増え、病気の元になる。生きていくのに十分な金はあっても、時代の迷妄を晴らさねば、欲望が反芻するようにして、金が足らなくなるよう社会は仕組まれている。貧乏が物の不足から生じるのに対し、貧困はまず心が不足する。

 

貧乏が清らかさと結びついて、清貧という言葉が生まれたのは、どれだけ貧しくとも、魂の健康を損なわなかったからである。「お前たちは私一人の子ではない、御仏様の子だ、お国の宝だ」と、かつてのお母様方は考えられていた。今日存在する、われわれは一人も違わず、かつてのお母様方が有難く育てた、その末裔である。

私の恥じ入る気持ちは増すばかりである。愛という言葉は安っぽくならぬよう極力避けてきたが、国を愛する人生が歴史に則った人間の本当だと思うのだ。国をほんとうに愛し、愛する人間のために己の生を全うしなければならないと信ずるからこそ、時代と食の迷妄にくすぶっているわけにはゆかないし、母に顔向けできるような立派な人間になりたいと励むのである。

 

2025.3.14