前後型の中にも、五種と六種があって、肩に力が入ってくると、五種はワイワイするが、六種は陰気になっていく。陰気になってしようがないので、言葉でひき立てるつもりか、熱のある言葉を吐く。ある六種の人で、「七生死すとも整体協会のために尽くす」と言って死んだ人がいます。「尽くす気があったら生きるんだよ。七生生まれ変わったら、僕は君だということを憶えてないよ」と言ったら、「死に際にはそれくらいのこと言わせてくれ」と怒っていましたが、そういうように敢えて活潑な言葉を使う。昔の共産党の闘士には六種の型が多かった。一番簡単に英雄になる方法だったからだと思うのですが、やはり六種にはそれが合う。余り労作しないで、非常に理想家で、坐って熱のある言葉を吐き、熱血漢で大勢を動かして、今にも行動するかに見えて、その実自分は動いていないというような場合には、六種的な体癖素質を連想してよいのではなかろうか。
(中略)
あるいは信仰に熱心であるとか、左翼運動とか、右翼運動とかに熱心であるとかいう、ある主義に殉ずるという特異な傾向をとる人達の中には六種が多い。聖セバスティアンなどというのは、ああいう殉教の仕方から見ると、ひょっとしたら六種だったのではないだろうか。そうだとしたら、矢が当たっても、火で焼かれても、痛くなく、熱くなかったろうと思うのです。そういう没我的な行動というのが六種にはよく現れるのです。
野口晴哉「体癖」
甘いものをやめると決め、毎日穏やかな気分で過ごしている。心筋梗塞や脳梗塞、ガンなどが「実証」に多い一方、鬱病は「虚証」に起こる病気である。些細なことで苛々する者もあれば、暇がある度に悲観する者もある。生ずる感情は体質によって各々であり、先天的特性を堕落させる形で病は生じている。病をきっかけに人生が変わったとか、病を克服して運命が拓けたというのは、治癒とはわれわれの魂を地上の束縛から自由にすることを言うからである。肉体を治療し一時的に症状を抑えることで、病は克服されるのではない。もっと根本的なところ。日常の些細な事柄に、怒ることも、怯えることも、悲しむこともなく、肉体と魂の両方とが元気になる状態が真の健康である。
話は変わるが、この機会に東洋医学を学び直してみようかと、野口晴哉先生の「体癖」を読み直しているが、熱のある言葉を吐く代わりに、あまり行動の伴わぬところを見ると、私は六種かもしれないと恥ずかしくなっている。これまで千日近く言葉を綴ってきたが、武士道の思想に熱くなっていたときは、「憧れに死す」とか「理想に殉ずる」とか、勢い任せで無責任な言葉を随分残したように思う。
実際、ある友人に対しては、勢い任せに言葉を吐いたものの、いつまでも行動が実行されないという、情けないことも過去にあった。そんなことが二度三度続き、自分の言うことが信じられなくなったものだ。それから反省して、約束を守れないことは絶対に口にせぬ、約束したことは必ず守ると決め、戒めが功を奏したか、熱と勢いだけに任せた無責任な言葉は、慎むことができるようになった。
誰しもが何かしらの肉体的宿命を背負ってこの世に生を享けている。その特性を覗いてみれば、耳も心も痛くなるような、憂鬱な性質を持っていることもある。だが、この変えられぬ性質をいかに受け入れて、世のため人のため生かす道を考えていければ仕合せな道は拓けていくのだろう。もっとも、食を正すことが大前提である。好き勝手なものを食べて、心を貧しくしているのでは、業を繰り返すだけである。肉体も魂も元気になり、前向きに生きられるところから、人生を明朗に生きられるのだと思う。その力を人間存在は有するのだと、固く信ずるのである。
2025.3.12