養生シートを外して部屋を片付けた。隅々まで掃き掃除をしたあと、紙やすりで床を磨き、力を入れて水拭きをした。それから柿渋を塗って、乾いた頃合いに家具を再配置した。いまは、薪ストーブで燃え上がる炎を眺めながらこれを書いている。とても暖かく気持ちがいい。今までの疲労がどっと押し寄せてくる。体が重たく瞼が重くなる。炎が煙突に吸われていく音と一緒に、意識もまた夢のほうへ吸い込まれ、いまにも遠のいていきそうだ。
いよいよ家が完成したというが、これが社会にとって何の役に立つわけでもない。自分という小さな存在の、卑しきエゴイズムを一つ満たしたにすぎぬ。国や社会のために奮闘している人間や、我が子のために苦労を厭わない立派な人間をみれば何の価値もなく、まったく自分が情けなくなるばかりである。
結局、個人の趣味が自立するのは、仕事の延長線においてである。立派に仕事をしている人間がギターの一つでも見事に演奏しようなら、彼の嗜好の豊かさを世間は褒め称えるだろうが、仕事もろくにしない人間が同じようにギターを弾いても、遊んでばかりいて駄目な奴だと烙印を押されるだけである。
国や社会のために立派に仕事をこなしている人間は、何をやっても素晴らしいと評価される。反対に、ろくに働かない堕落した人間は、何をやっても駄目なのである。小屋が完成したというのに、むしろ苦しさを感じるのは、人間として堕落した事実に胸を刺されているからである。かつて隠者だった私は、罪の意識を抱くこともなかった。いまは、隠者になりきることもできぬ。隠者もまた半端者であるかぎり、ちっとも気高くないのである。
ようやく小屋が完成し一息ついたところだが、爺くさい暮らしをするつもりはない。国や社会のため、自分にできることを考えて、すぐにでも働きに出るつもりである。ひとまず、畑の仕事がはじまるまでの数ヵ月、どんなことでも自分以外の存在に尽くすのである。
2025.2.17