人間のからだはストーヴで、食物は肺のなかの内部燃焼をつづけるための燃料であるそうだ。われわれは寒いときにはより多く食い、暑いときにはより少なく食う。動物としての熱は緩徐な燃焼の結果であり、病気と死はそれがあまりに急速になったときにおこる。あるいは、燃料の欠乏または通風における何らかの故障から火が消えたときにおこる。
ソーロー「森の生活」
まことに驚いた。これとまったく同じことを、私は過去に「地水火風の「火」について[546/1000] 」で述べている。言わずもがな、ソローの言葉のほうが何倍も何十倍も洗練されてはいる。人間とは酸化熱を生み出しつづける、時空に投げ込まれた「火」であり、われわれは「火」に異常が生じたときに病気となり、「火」を絶やしたときに死を迎える。
ここを軸に論を展開すれば、衣食住のすべては、燃焼熱を確保するためにあり、運動後に冷水を飲むのは、過度な熱を冷ますためである。こうした生理的行動は、すべては緩徐に燃焼を行うためのものだ。生命の燃焼リズムが崩れたときに、病は起こりうる。逆に、生命の燃焼リズムを整える行為が、深呼吸である。
これでなぜ、呼吸の深さが人間の生き方、ないしは健康に甚大な影響を及ぼすか理由が分かるだろう。
呼吸は、酸素を取り入れて二酸化炭素を排出する。取り入れられた酸素は血液に入り込み、ヘモグロビンと結合し動脈を通って全身に運ばれる。全身の細胞でミトコンドリアが酸素を心待ちにし、ミトコンドリア内で栄養素と酸素が反応したときに熱が生みだされる。この生命の本質である酸化熱に直にかかわる行為が呼吸なのである。呼吸が浅くなれば、熱の生成に不安が生じるし、呼吸が深くなれば、燃焼リズムは整うだろう。
私の健康論は、食事にも運動にもあらず、地上の物質を超えた宇宙エネルギーを体内に湿潤させることである。分かりやすく言えば、情熱に生きることだ。情熱とは「情」の熱である。生命の根源である熱を、宇宙から取り入れ、宇宙に向けて迸るのである。宇宙と自己との間において、エネルギー通路が生じることが情熱の神秘である。これを突き詰めれば、信仰的な人間になる。ここばかりは、個人の生活体験に基づいて省みてほしいのだが、物が貧しくとも身を捧げるように生きているときのほうが、健康ばかりに気を遣う物質生活よりも、ずっと身体の調子はよくないだろうか。
幸福とは、生命熱の緩徐な燃焼状態をいう。私は森で生活をしているとき、人生で最も幸福な時間を過ごした。これは、誇張でも何でもない。心の底から深い充足を味わい、幸福であることに涙した。森の生活は、緩徐な熱燃焼の条件に適合していた。時間を忘れて木々を眺めれば、呼吸は自ずと深くなり、読書や物を書く時間も、すべてが素朴であった。
素朴なものは人間に力を与える。洗練されたものは人間から力を奪う。これは、私の力の哲学であるが、すべては呼吸に通じている。洗練された電子機器を使っているとき、気づけば呼吸が浅くなるという体験をしたことがないだろうか。洗練されたものが人間を無力にするのは、呼吸が浅くなるからである。素朴なものを味わうために力がいるのは、深い呼吸を必要とするからだ。
今日の空を見上げて涙を流すには、それだけの深い深い力がいる。人間が生命熱である以上、この力を重んずることが創造主に感謝することだと思うのだ。
2024.2.19
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