「女々しい」とは、男に対して用いられる言葉である。女に対しては、女々しいとは言わない。だが、女が女々しいというわけでもない。男には男なりの雄々しさがあり、女には女なりの雄々しさがある。だが、男には「男になる」という言葉があるように、越えて行かねばならぬ峠がある。
インドの聖典であるバガヴァット・ギーターに、”私は人間の雄々しさである”という言葉が登場する。男女にかぎらず、人間の胸奥に燃え続ける焔とは雄々しさである。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」という詩には女の雄々しさを感じる。
ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刄をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。
男には男の雄々しさがある。女には女の雄々しさがある。同じ雄々しさにも性差があり、出し方を間違えると、うまくいかなかったりする。このあたりの言語化をあまりうまくできる気はしないが、雑にいってしまえば、男の雄々しさは義に向かっていくもので、女の雄々しさは愛に向かっていくものに思われる。どちらも女々しさを吹き飛ばして、困難を越えていく力がある。
一か月前に見た「Stand By Me」という映画のワンシーンがずっと心で燃焼しつづけている。4人の少年が死体探しの旅をする有名な映画であるが、リーダー格の少年が大人に裏切られた過去の心の傷を泣きながら吐露する場面がある。いつもは空っとしている彼は、誰にも打ち明けられなかった悲しみをついに漏らし、「俺って女々しいだろ」と恥じながら言葉にする。
少年の心理には人間らしさが詰まっている。湿っぽくなることや女々しくなることには羞恥心を抱くのが自然であるし、ついに弱音を吐いてしまったときには、それを聞く友人も、彼に恥をかかせないように精一杯務めるのだ。
男女平等は、歴史の宿命であったが、雄々しさの喪失に被る痛手は男のほうが大きかっただろう。今日の理想の父親像は、女性と子供に優しい、英国仕立てのジェントルマンであり、包容力があって、家事にも協力的な理解のある父親である。だが、父性と母性は双璧である。馬鹿だけれども、意志が強い頑固親父も必要とされるのだ。
こんなことを書いているが、私もインドへの旅を前にして、あらゆる女々しさを吹き飛ばさねばならんと必死だ。わざわざ、なけなしの金をはたいて苦労しにいく必要がどこにあるだろう。だが、行かねばならんのだ。何の社会の役に立たなくとも、誰も得しなくとも、落ちぶれた私なりの精一杯の戦いだ。
さあ身を挺してぶつかっていこう。
2024.2.11
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