人間を無力にするものは何だろう。”what makes humans impotent”のwhatとは何だろう。
「神の老衰」だろうか?私は人間がつくられた哲学を、神が自身を感じるものだと考えている。現象界の創造主であるデミウルゴスは、鳥をつくり群れで空を飛んだ。蛇をつくり巧妙に地を這うた。虎をつくり狩りをした。魚をつくり海を泳いだ。中でも最高傑作のひとつである人間は、神自身に想いをめぐらせ、神話をつくり、そのために命を擲つことができた。万物の霊長として、人間は他の動物と一線を画したのである。
だが、人類史をみれば人間の霊性は右肩下がりで衰え、空を見上げて詩作する素朴な慣習まで失われつつある。ここで問いたいことは「なぜ人間は堕落する宿命にあったのか」ということである。「冥府の木の実を味わったとき、冥府のものは既に人間が彼らの手に堕ちたことを知っている」とトーマスマンは魔の山で語っている。
ヒトの味を知った熊が、何度も人を襲いかかるように、われわれ人間もまた、一度味をしめたものに生活は徐々に堕落していく。詐欺師は捕まってもなお再犯を繰り返すし、裏金に手を付けてしまった政治家の腐敗も、簡単に治療できるものではない。
自由を謳うあらゆる言葉も、堕落の原理によって発せられるのなら、その行末は退廃である。義のためにのみ自由は謳える。自由を謳う者は、神から自由を勝ち得るために、己の不自由を受け入れる矛盾を孕んだのだ。
なぜ人間は堕落する運命にあったのか。なぜ神はそのように人間を創ったのか。私もまたヒトの味を知った熊である。だが、悲観のためよりも、希望のために考えてみよう。つまり、われわれ人間は、堕落した存在だったから神を信じてきたということである。キリスト教でいう「原罪」を抱えながら、このどうしようもなく堕ちてしまう性の中に、人間として在るべき姿へ向かっていかんがために、神を信じる強さを持ったのである。
堕ちることがなければ、天に迸ろうとすることもない。人間が万物の霊長に相応しい雄々しさを示すには、人間を絶えず堕落の重力に置いておく必要があったのだ。ゆえに、神は人間に原罪を与えた。ちょうど神に地獄に追放されたサタンが、天へ這い上がろうとするように、試練をあたえた。
神は人間を買いかぶりすぎただろうか。人間が神を忘れてしまうことは、神の意志に反することであっただろうか。だとすれば、これは「神の老衰」と言えるだろうか。それとも、人間が堕しても堕しても、天に突き抜ける美しい魂の誕生を、その頂点である最も美しい魂を、神は待っているというのだろうか。
答えはない。だが、人間の原罪は退廃のためではなく、天に試されてのことだと、今日のところは考えてみよう。
美しい魂の誕生を神は待っている。
2024.1.29
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