神から授かった力を信じないことを冒涜だと思わないか②[577/1000]

信じることよりも、信じないことのほうが容易い。愛することよりも、愛されようとすることのほうが容易い。戦うよりも、弱音を吐いているほうが容易い。素朴な慣習も、洗練された慣習の前では、奪われるに容易い。空を静かに見上げるよりも、画面に目を落とすほうが容易い。

 

容易いものに流れることを、無力の原理と言おう。容易いものに安住することを、安逸といおう。私は力を賛美したい。信じないことよりも、信じることを。愛されようとするよりも、愛することを。弱音を吐くより、戦うことを。洗練された慣習よりも、素朴な慣習を重んずることを。画面に目を落とすより、空を見上げることを。

おおげさに聞こえるかもしれないが、力ある存在であることに、生命の生命たるすべてを感じるのである。

 

人間を無力をするものは何だろう。食事だの運動だの、色んな要因がありそうだ。だが、環境の力以上に、われわれに作用を及ぼすものはないだろう。

電気もガスもない森の隠遁生活から、文明生活に舞い戻り一カ月弱、私の身体には、人工的な光や音のすべてがストレスとなり、こうした環境に適応した結果、頭にひとつ円形ハゲができた。ここまではよろしい。肉体の細胞が環境に適応するために、果敢に戦った結果である。

 

だが、あれほど文明生活に戻る前、「力の原理」を代表する素朴な慣習を守る誓いを立てたにもかかわらず、私は自身のうちに無力の根がつきはじめていることを徐々に自覚している。一つを赦せば、また一つ。さらに一つ赦せば、もう一つ。目の前に置いてあるチョコレートについ手が伸びてしまうように、少しずつ少しずつ、右肩下がりに堕落していくのが、動物的な弱さである。

 

ひとつ例を上げさせてもらえば、私にとって書物を読むことは、最も素朴な慣習のひとつであった。だが、電気が使えるようになると、映画をよく観るようになった。この一か月弱の間に、20本近く見ていると思う。読書に比べれば、映画を観ることは容易い。古く素朴な映画を観ているので、まだ素朴な慣習といえるかもしれないが、その分、読書の時間は減っていき、私の中では確実に「生命の力」が弱まっている感触がある。

 

生命の力とは、人間の「焔」である。私はこの焔を大きく、強くしていきたい。

焔の力が弱まると、今いる環境から抜け出す力も失っていく。これは先日も書いた、鳥かごに捕らわれた小鳥が、エサと水を与えてもらうことに慣れると、鳥かごを開けっ放しにしていても、自分から外に飛び出せなくなる現象と同じことである。

 

だが、われわれの生命は、環境に飛び出せば、環境に適応するようにちゃんとできている。これが神から与えられた「野性」である。環境に適応できなければ、死にもするが、これは神の定めた自然の掟である。

私は、神に与えられた「生命の焔」と「野性」を、安逸のうちに撃沈させてしまうことを恥とする。信じてみるがいい。新たな環境に適応していく己の野性を。神から授かった生命の力を。

 

2024.1.18

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です