クリスマスに教会のミサに参加する―去年につづき②[553/1000]

朝いちばん、誰もいない教会に足を運んだ。ミサがはじまるまで1時間以上もある。

こうして朝一で教会に来たのは、だれもいない聖堂の空気を満喫したかったからというのが、第一の理由であり、教会のなかで身を温かくして待っていようと考えたのが、第二の理由である。隠遁生活を終えて、諏訪湖に降りてこれば、家なし子だ。家なし子にとって、教会とは救いの場である。ホームレスにとって、教会は差別なき家である。

 

だれもいない朝の聖堂は、昨晩とまた違って、「神聖」というより「神秘的」な空気が満ちているように思われた。ひとりなのをいいことに、自由に聖堂のなかを見物した。イエスが十字架にクギを打たれている絵画、聖母マリアから誕生した瞬間と思われる人形模型、また、後方にある「告解室」も扉を開けて中を覗いてみた。告解室とは、いわゆる罪を告白するところである。2つの小さな部屋が隣り合っており、それぞれ、罪を告白する者と、神父さんが入る。2つの部屋の間には、顔の見えない仕切り窓があり、声が通るように、窓に小さな穴がいくつもあいていた。

 

ひととおり、聖堂を見物したあとは、昨晩と同じ左後方の席に座り、昨晩感動に包まれた、あの「しずけさ」の歌にふれるべく、聖歌集を開けた。だれもいない聖堂のなかで、しずけさを声に出して朗読すると、この素朴な詩が、聖堂の神聖な空気を震わすのを感じた。

ミサがはじまる1時間前になって、信者さん、修道女さんたちの祭典の準備がはじまった。おそらく、だれもいない朝早くの聖堂の隅で、聖歌集に瞑想する私は、熱心な信者に見えたことだろう。

 

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ミサがはじまる。聖体拝領のことを書こう。

昨年、私が感動した聖体拝領の儀も、去年の2回と今年の2回で、4回目になる。私の前に座っていた、若い娘たちの一人が、洗礼を受けていないが、パン(キリストの肉体)を誤って受け取ったらしく、食べていいのか困惑しているところを、修道女さんに確認されて、パンを没収される風景も見受けられた。パンを授かるのは、洗礼を受けた信者だけであるが、キリスト教の信者でなくとも、神父さんから祝福を受けることができる。そのため、聖体拝領の列には信者以外も並ぶが、儀式を熟知しない信者は、たまにこうしてパンを授かってしまうという出来事が起きる。

これまで参加したミサを思っても、若い娘一人で参加するのは稀らしく、何人かの集団で参加することが多いようである。私の前に座った三人の娘たちも、胸の前で立派に十字架を切っていたのをみると、子供の頃からの信者なのかとも思ったが、三人とも洗礼は受けていないようであった。

 

私もせっかく来たからにはと、参列し、神父さんの前で合掌の形をとり、うやうやしく頭を下げる。ただ、「祝福」とはキリスト教側の論理にすぎず、信じないものにとっては、何の価値もないだろうと思った。なぜなら、キリスト教信者でない人間にとっては、神との交流に神父を間に挟む必要がなく、もし神父さんの祝福を信じるのであれば、それは既にキリスト教に半ば、帰依していることを意味するからだ。

 

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宗教とは、死の暗黒のなかに打ち立てられた楔のようなものだと考える。武士道や葉隠もそうだ。己を流体と化すには、この楔を頼りに、暗黒に身を投ずる必要がある。宗教の本来の目的とは、流体になることであり、宗教そのものが自己目的となれば、われわれは固体と化する。つまり、「生の原理」による宗教か、「死の原理」による宗教かと言うことができるが、宗教とは死の原理によるものをいうのだから、前者については、当然うさんくさい、インチキ宗教になるのである。

 

ニーチェは神が死んだと言ったとき、朽ちた教会の崩れた天井から見える青空を讃えた。この比喩は、まさに生の原理に堕した宗教の否定であり、生の原理に堕した宗教に帰依するくらいなら、教会など壊してしまい、さらに大きな青空のなかに死の原理を見つけよ、と言うものだと私は理解する。われわれ生命とは、天を貫くものである。

 

2023.12.25

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