「感情を大事にする」とは、今日よく使われる表現だ。しかし、その内実は、「お互いに傷つかないよう斟酌する」という意味合いであるように思う。つまり、人間関係を合理性の下、円滑にするため、換言すれば、みなが気持ちよく、平和的であるために大事にされている。
「すみません」の代わりに「ありがとう」と伝え、新人には「助かったよ」などと励まし、心理学上の技術と、言葉の表裏を巧みに操り、「感情を大事にした」職場がつくられる。
連日、「感情の力」を賛美する日がつづく。私自身、感情を大事にしたいと思うのは、上にあげた例のように対人についてというよりは、対神においての意味である。昨日も書いたように、創造主が現象界を生み出したのは、人間の感情を通じ世界を感ずるため、つまり、人間とは神の感覚器官である、という一哲学に、私は猛烈に感動しているのだ。
全世界の人間を創造する。各々が持つ「感情の力」の総計こそ、宇宙の力のバロメータであり、人間の感情力が無に帰したとき、神は不能となる。これは、ショーペンハウアーの言葉で言い換えれば、意志の要求を、脳髄の衰弱に伴う知性の弱化によって、応えることができなくなることである。われわれは、意志をつうじて、絶えず宇宙から要求を受けつづけているのである。それに己の脳髄の力をもって負けないことこそ、われわれが感情を損なわない道であり、人生にぶつかっていく道であろう。
こうした形而上学的な意味での、「感情を大事にする」とは心理学を用いた巧みな言語テクニックを指すのではなく、感情を無力にする習慣を悪とし、感情を強める習慣を善とすることである。別の言い方をすれば、脳髄を強化する習慣を善とし、衰弱させる習慣を悪とする、ともいえるかもしれない。
これらの習慣の具体については、これまでも散々述べてきていることなので、ここでは手短に書くことにする。脳髄を衰弱させるものとは、虚飾に満ちて刺激偏重であり、技巧を凝らされ、感情の努力を必要としないものだ。一方、脳髄を強化するものとは、素朴で古典的で、味わうためには努力が必要なものだ。
使わない器官が退化することは、生物の進化が証明するところだろう。脳髄は人間の器官であり、努力をやめ、感情を煥発する習慣を失えば、脳髄は衰退するのだし、逆に古典的習慣を好み、常に感情を煥発しつづければ、とりわけ読書のように、知性を働かせつづければ、脳髄は確実に強くなるのである。
これは、私自身、隠遁生活の読書体験をもって断言できることである。絶対に分からないと思われるような本でも、分かるまで読もうと思い、何度も繰り返しぶつかれば、脳髄が強化され、分かるようになるのである。
これは大事なことなので、何度だって言おう。われわれは、こうして感情の力をもって、人生の要求に応えていくのだし、それこそが、己の神に対する義務、親から授かった、生命としての人間を、生物的にも人間的にも大切にすることだと思うのだ。
2023.12.22
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