ショーペンハウアーは、男女の結合について、男がもたらすものは「意志」であり、女がもたらすものは「知性」であるといった。ほんとうにおもしろい。男の性欲とは、宇宙より授かった生きんとする意志であり、交合において男が主となって動くのは、まるで宇宙の意志を体現しているようだ。
ここでいう男の意志とは、宇宙を満たすエネルギー総体をいう。意志が肉体に宿り、肉体が動かされ、脳髄の働きによって知性が生まれる。つまり、意志が第一義であり、知性とは第二義である。宇宙の意志が、男の性欲に働きかけるとは、ほんとうにおもしろい哲学だ。交合は、主として男の役割であり、女の役割は子を授かり胎内で育むことだ。
以前、「宇宙の創造主であるデミウルゴスは、なぜ現象界をつくったか」という問いにこそ、人生の意義のもっとも深い部分があるのだと記述したことがあった。これに対する、哲学的、宗教的な答えを、なんと、トーマスマンが魔の山のなかで、ペーペルコルンという人物に語らせているのだ。
それは、「神が人間によって『感じる』ため」である。つまり、意志たる宇宙が人間を創造したのは、人間という感覚器官をとおして、世界を感ずることだという。
私は度肝を抜かされた。これほど、生命燃焼、エネルギーの賛美において理にかない、美的にも申し分のない答えはあるだろうか。男の感情力が衰え、人生の要求に対応できなくなることは、宇宙の「意志」が人間において「不能」になったことを意味し、言葉をかえれば、インポテンツになったということだ。われわれ人間、とくに男にとってはこれは恥辱であるばかりか、神にとっても、人間が感情の力を無力にすることは、屈辱であるというわけだ。
考えてみると、ほんとうに壮大な話である。仮に人類の男、すべての感情が衰え、女の魅惑に応えることができなくなれば、人類は滅亡し、神は己を自覚する感覚を失う。これは、現象界、人間をつくった神にとっての敗北であり、また人間のわれわれからすれば、感情を無力化することは、何にも代えがたい神への冒涜であるということだ。
もし生命的な義務、形而上学的な義務があるとすれば、感情を強固にし、人生の要求に屈しないこと、人生の要求に応えていくことだと、言えるのではなかろうか。そのためにも、昨日も書いたような、感情を補強する古典的慣習を、われわれは大事にしなければならない。
ここ数日、ショーペンハウアーの哲学を繰り返し読んでいたが、思わぬところでトーマスマンの哲学を深く汲み取ることができた。私は、この現象界が創造された意味を、「神が人間によって『感じる』ため」という一つの形而上学的見解に、猛烈に感動している。気のせいかもしれないが、私はいま、デミウルゴスの御心に敬意を示せているような気がするのだ。
2023.12.21
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