不思議な体験だった。
私は昨晩、確かに夢を見ていた。詩作の夢だ。友と一緒に、森の中で人生を想う俳句を考え、ちょうど披露しようとしていた。そのとき私は目が覚めて、何を俳句にしたのかも忘れ、しかし、私の頭は詩作にのめり込んだままで、夜の小屋の天井を見上げながら、おぼろげに隠遁生活を俳句にしたのだ。
そのとき作った俳句は忘れないように、枕元にあったショウペンハウアーの本の背表紙に書き綴っておいた。そうして私は安心して眠りに落ちたが、この夜中の出来事は翌朝になるころにはすっかり忘れていた。朝になって食事をすませ、ショウペンハウアーの続きをしばらく読んでいて、ふと偶然、表紙をめくったときに、昨晩書き綴った、おぼろげな字を目にしたのである。
束の間、私は「はてこれはなんだろう」と疑問に思ったが、次の瞬間には、完全に忘却されていた、昨晩のおぼろげな記憶が、どっと頭に舞い戻ってきた。夢の中で何か大事なことを閃いて、「絶対に忘れまい!」と誓っても、現実に戻った頃にはすっかり忘れている。このように夢と現実の境において、不思議な体験をすることが隠遁生活中はほんとうに多い。
詩は次のようなものであった。
「遁世に 満ちては消える 影法師」
私は毎日といっていいほど夢で必ず、人間と出会う。それだけ人間に渇いているのかもしれない。そして、目が覚めて、現世という夢、隠遁をしている孤独な境涯と再会するのだ。すべてが夢であり、泡沫のように湧いては消える。そんな詩である。
***
今朝、ちょうど暁光が森にさそうとする頃、私は寒くて布団から出られずにいると、なにやら小屋の天井がドンドンと音を立てたかと思うと、小鳥がいっぴき侵入してきた。どこからかの隙間を縫って、入って来たらしい。いかんせん、私の小屋は隙間だらけだ。
小鳥は外に飛び出すために、窓をめがけて一直線に突進した。パニックを起こしたか、窓に直撃すると、そのままあちこちの窓にぶつかって、最終的にひとつの窓の縁に着下した。窓をあけてやっても出ていく気配がない。頭を撫でてやっても、じっとしている。ケガでもしたのかと心配したが、おそらく軽い脳震盪でもおこしていたのだろう。
五分ほど経つと、すぐに飛び上がり、森へと帰っていった。私は久々の来客に胸を躍らせていた。
小鳥をみながら思うのだ。あんなに愛おしい生き物が、この世に他といるだろうか。可憐で健気で、歌を上手に歌い、大空を自由に羽ばたく。この世界の創造主を思うとき、小鳥をつくられた神の慈愛と、世界の美しさに感動しないわけにはいかない。
ショーペンハウアーによれば、動物とは「現在」を生きる存在である。対して、人間はその発達した高等な知能により、現在を生きながら過去を回想し、未来を憂うため、動物ほど「現在」を生ききる存在とはいえないのだ。
われわれ人間は、動物よりも大きな幸福を味わうかわりに、過去や未来の分も現在に蓄積される分、苦悩も大きい。ゆえに、純粋に「現在」を生きる動物をみると思い出すのである。
現在を純粋に生きる生き物の素朴さ、時間に従順な愛おしさ、命のまま生きる無邪気さを。
2023.12.11
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