詩作の廃れ[527/1000]

この一週間、朝から晩まで詩作に耽っていた。そのすべてが今のところ没作であり、己の凡性が恨めしい今日である。

私自身、詩作をしてみてまず感じたのが、この1000日投稿との対比的な構造である。こうして日々文章を書くことは、海面でバタバタ泳いでいるようなものである。それ自体が目的であり、実は海底に深く潜るチャンスをうかがっているのである。

一方、詩の礼儀とは、己の海から言葉をすくいあげることであった。われわれ人間には、海がある。「私は海のあるものを愛する」とは、ツァラトゥストラの言葉である。

 

海のあるものに対するとき、己の潜水力が試される。ニーチェの著作はすべてが詩で綴られている。すべてが海であるから、己を照らす鏡として、自分の身の丈に応じた味わい深さが、読むたびに得られる。そして、海のないものは、いわゆる一回かぎりの「情報」であり、一度読んでしまえば、それっきりである。旅に一冊持っていくのなら、海のある本を持っていってはどうだろう。

 

***

 

詩作のすべてを白紙に戻すことにした。だが、非常に悔しいので、適当な部分だけでも、ここに書き記そうと思う。目も当てられぬ、廃れの数々である。

今でこそ思うが、礼儀正しく、守破離を重んずれば、散文詩ではなく俳句や短歌のように枠組みが決まっていたほうが取っかかり易かったにちがいない。

 

・「同情に救われたといえば 嘘になる

だがお前に憤る資格さえ なかったのだ

俺は 見捨てられるはずだった

敗者として 不名誉の恥辱に塗れて」

 

・「我が忘却の欲するは 断じてお前ではあるまい

畏怖とも遜色なき お前の姿 今ここで直視する」

 

・「ああ 見捨てられた英雄たちの墓の上で

泣いていたのは お前の方だ」

 

・「死に神よ お前は霞のない命しか刈り取れず

さもなくば 汚泥から宝を探す 手助けをしてやってるにすぎぬ」

 

2023.11.29

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