森のなかで一人隠遁生活をしていても、けっして人間関係から自由になったと言えるものではなく、毎日、これまでに出会った人間関係を想っては、今日生きるエネルギーとして生命を燃やしている。
親と恩師への恩、遠くの地で戦う戦友への信義、堕落者に対する大いなる軽蔑、人類の先人と、日本の祖先に対する誇りと羞恥心、人間としての「恋」のエネルギーは一つの例外もなく、人間との出会いの中から生まれているのだ。
エネルギーを生む感情は複雑多様である。恥じないようにと思うことが、エネルギーの奔流を生むこともあるし、軽蔑や憎しみ、復讐の念が、人間を駆り立てることもある。今日の道徳に照らし合わせれば、後者は悪である。しかし、エネルギーを善とし、無気力を悪とする生命論を投ずれば、こうした禍々しい感情すら善となりうる。その一例として、葉隠は武道の高慢を認めているし、ニーチェも、大いなる軽蔑を教える。
生命の本質が熱だとするならば、出会いとは、熱体同士の摩擦みたいなものだろうか。そして、よき出会いとは、この摩擦熱が大きな出会いのことであり、一切の衝突を嫌い、熱が発生しないならば、それは出会いとはいえないのである。どんな出会いも尊いなんて言うのは、ヒューマニズムの欺瞞である。
エネルギーを賛美し、生命を真に重んずれば、摩擦熱を生み出す出会いこそ、いい出会いである。たとえ傷ついても、言葉を交わすことさえ拒絶されても、そこに悔しさや悲しみ、怒りと見返してやろうという復讐のエネルギーが湧きだすのなら、いい出会いだったと言えるのであるまいか。
どうでもいい人間に対しては、熱すら生まれない。生命が熱である以上、熱を生む関係こそ、生命的である。
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いつまでも心に存在しつづける人間がいる。彼らとの出会いは、強烈ゆえに、時に傷ついたような実感もあったものの、思い出すたびに、摩擦熱が生まれる。
恥ずかしながら、持論をさらに展開すれば、相手への愛が大きいほどに、生み出される熱は大きなものとなりはしないだろうか。われわれの存在が熱である以上、相手に熱を与えることは、己の生命を相手に与えることである。例え、それが表面上、憎しみや、軽蔑の形をとっても、愛していないわけではない。愛は好悪の感情よりも上位のものだ。愛しているからこその憎しみであり、愛しているからこその軽蔑である。
愛がややこしくなるのは、「好き」を高尚にしたものが愛だという誤解ではあるまいか。だが、そうではない。日本人の愛は、「恋」の延長線に存在した。恩も信義も軽蔑も羞恥も含め、あらゆる人間熱が凝縮し、暗黒の炎のごとくドロドロに燃えたぎるものの総体に愛をみた。
われわれの存在の本質が愛だというのは、われわれの生命が熱だからに他ならない。そして愛のある人間とは、この人間的な「恋」のエネルギーを重んじ、孤独を忍び、孤独を貫こうとする者であろう。時代を超えても、発熱をつづけるあらゆる存在は、もっとも己の生命熱を、外部に捧げ、外部を火傷させたようなものだ。
必ずしも、優しさだけではない。心地よいものだけでもない。憎くても、軽蔑せざるをえなくても、ここに人間を思う心があれば、熱源は愛ではあるまいか。愛ゆえの破滅もあれば、不幸な人生になることもあるのだ。何年も経って、愛だったと自覚することもあるのだ。
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総じてエネルギーを善とし、無気力を悪とするのは、エネルギーこそが生命と人間の存在を肯定するものであり、同時に「恋」のエネルギーと人間の誇りを重んじ、運命と愛に殉ずる生き方だからである。
今の私はニーチェの言葉を思い出す。「愛と希望を投げ出すな。」仮にいま、憎悪、悲哀、軽蔑のさなかにあっても、そこにある愛を忘れてはならない。投げ出してはならない。そういうことだと私は受け取った。なぜなら、それこそ、神が死んだ今日においての希望だからだ。
2023.11.24
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