エネルギーを賛美する。エネルギーは善で、無気力は悪だと信じている。なぜなら、生命とは、有機体の酸化熱であり、エネルギーの肯定は生命そのものを肯定し、無気力が熱、つまり生命そのものを否定するからである。生命燃焼とは、エネルギーを原理にした生き方である。
エネルギーはどこからやってくるか。
当然、宇宙であろう。四大とよばれる地水火風のごとく、人間の観測できるものから、観測できない超越的なものまである。暗黒流体なる、「火」は肉体に湿潤し、文字通り熱源として生命の動力源となる。
人間は精神によって、エネルギーをより高次のものへ練る力をもつ。動物のように、宇宙のエネルギーを、エネルギーのままに放出することはないのである。放縦は、躾によって制される。これは、快楽原則で生きることを矯正し、現実原則をたたきこむことを言う。このエネルギーの凝縮に、文化性が宿り、人間の精神が生まれ、精神が誇りを生む。誇りが大きなエネルギーとなるのは、精神がエネルギーを蓄えるパワースポットであり、誇りがこれを引き出すからである。
誇り高く生きようと、精神を練りつづける一方、こうしたエネルギープールを打ち砕いてしまうものが、「同情」かもしれない。精神は叩かれることで大きくなるからだ。放縦の末に、無気力があるのは、同情のかなしい末路であり、品のない言葉をつかえば、ケツの穴が緩んでしまったのである。
***
サドの「悪徳の栄え」に手を付けた。この本の性的描写も、殺人描写も、淫蕩具合も、私にはかなりきつく、読み切れるかもわからない。しかし、この快楽原則から生まれる悪徳というものに、エネルギー論の何かがあることを直感する。なぜなら、私がこの本にとてつもない嫌悪している一方、同時に凄まじいエネルギーを感じているからである。これは不思議な現象だ。
エネルギーに善悪を見分ける力はないとしたら、時として道徳が人間を無気力にするのではないだろうか。悪徳を封じることによって、美徳までも封じているのではないか。そのあたりの直感も踏まえてもう少し読み進めてみようと思う。
<整理>
・エネルギーは善悪を知らない
・社会的な人間は現実原則に適応するために道徳を用いる
・道徳ががんじがらめになることで、エネルギーが滞り、気滞≒無気力となる
・エネルギーの発露として偶像崇拝があるが、動物的な放埓、放縦に流れないためには、精神が必要である
・人間として生きるとは、エネルギーを人間的なエネルギーである「恋」に高めることである
<追記>
悪徳の栄えを読み進めて。エネルギーを体内に感じたのは、現実原則の破壊、すなわち偶像破壊がなされたからだろう。
道徳が破壊されることによって、体内で滞っていたエネルギーが流れ出したと考えられる。非常に気分が悪い。こんなものを読んでいては、気がおかしくなりそうだ。ゆえに、精神が盤石でない人間にとっては危険極まりない本である。流れ出したエネルギーは、すべて「精神」に注ぎ込む。これが、私にできるこの本との正しい向き合い方だ。正しいとは、もちろん人道的をさす。悪の哲学は、論理においても狡猾にあげあしをとろうとする。しかし、私は人類の誇り、偉大なる魂を思い出し、悪の哲学を跳ね返そう。
2023.11.22
コメントを残す