トーマス・マン「魔の山」にぶつかって一週間[509/1000]

トーマス・マンの「魔の山」にぶつかる日々がつづく。もう一週間は経ったろうが、まだ下巻の冒頭にとどまっている。上下巻で、1500ページの長編にして、内容が濃密で、一日100ページも読み進めることがむずかしい。

西洋の民主主義思想と、神の国を志向する虚無主義思想、合理と非合理、秩序と混乱が対立しながら、論争がぎっしり詰まっており、正直かなり疲弊している。むろん、これは前向きな疲弊であって、このくらい苦しんだほうが、隠遁生活の甲斐があるというものだ。ニーチェの「ツァラトゥストラ」も大変な感銘を受けたけれど、トーマスマンの「魔の山」にも、とんでもなく素晴らしい本に出会ってしまった実感がある。

 

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人間の悩みには、自己起因性の悩みと、非自己起因性の悩みがあるという。前者は自分を小さくするもので、後者は自己を大きくするものだ。私は、前者か後者への橋渡しになるものの一つに「知識」を思う。自己起因性の悩みとは、時代の必然によって生じた大衆社会のなかで生まれる、堕落精神の苦痛に思われるからだ。

 

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高尚な思想のことなど考えず、立派な人間であるかが問題であり、勤めを忠実に果たすべきだというのは、形式を重んずる軍人らしい考えである。

私自身、軍隊のような部活動にルーツを持つので、こうしたストイックな考え方は、すごく親しみがある。しかし、民主主義における「市民」としての義務は、形式だけではなく、内実が伴わなければ、民主主義は形骸化する。

 

もっとも、労働をしていない今の私は、義務を語れる立場にはないことが恥ずかしい。神が死んだ現代、日本的に言えば、愛国心が失われた今日においては、形式を重んじ、自己の生命を燃焼させる一点に責任を持つことだけでも、私のような大衆には挑戦を伴うことだ。

歴史を学び、思想に触れるのも、市民の義務感からというよりは、自己の生命の燃焼のためである。それほど、私の中では、信仰の衰弱に伴い、義務の意識も薄れていよう。しかし、少しでも独立自尊の市民として胸が張れるようになれば、国を思う立派な人間になれるのかもしれない。この可能性は、希望として残しておきたいと思うのだ。

かつての「市民」にはまだ遠く及ばない。

 

【書物の海 #39】魔の山, トーマス・マン

私たちは徹底的に議論します、そのことが、かえって私には彼と出会う魅力になっているのです。私は摩擦を必要とするのです。信念は闘う機会がなければ生命を保ちえないからです、そして―私の信念は固められました。あなたはご自分について同じことを主張することがおできでしょうか―あなたは、少尉さん、それともエンジニア、あなたは?あなた方はあのなかば狂信的、なかば悪意ある三百代言的議論の影響で精神と魂をそこなわれる危険にさらされているのです

 

2023.11.11

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