食うこと食わぬことについて[503/1000]

精神にとっての屈辱は、宿主である肉体が食わねば生きられないことだ。つまり、精神が己の存在を肯定するために、己を否定せねばならぬ。

 

私には禁欲的な面があるが、肉体を蔑んでいるのではない。肉体が大事ではない、ということでもない。美味いものが好きだし、女が好きである。この世のありとあらゆる快楽を味わってみたいとも思う。

しかし、肉体以上に重んずるのが精神だ。精神のためには、やむをえなく肉体を犠牲にせねばならず、これが結果的に、座禅的で、ストイックで、禁欲的な、側面としてあらわれる。

 

つまり、精神的営みである読書のためには、肉体を突き放す必要がある。死ぬ気にならなければ、読書は身にならないと感ずる今日だ。死のう、死のう、と思って読むようにする。混沌の中に身を投げるように読む。

 

一つ考えが浮かんだ。30日間、断食をしながら読書をしようかと。そのくらい本気になれば、ちっとは、著者の魂にぶつかれはしまいか。死ぬほどの覚悟とは、こういうことを言うのではないか。そもそも、金のない俺が食えているのも、親から金を借りているからだ。自主独立を誇るなら、食えていることのほうがおかしいだろう。

 

しかし、水だけでは生きられるまい。あのガンジーのハンガーストライキでさえ、(たしか映画のなかでは)断食中に、レモン水のようなものを飲んでいたように思う。過去に、3日の断食をしたことがあったけれど、頭痛に見舞われて、当然腹も減り、食うことの執着はいやらしくも、増すばかりであった。

肉体を退けるために、かえって肉体への執着が高まるのは本末転倒だ。ああ、なんと精神の屈辱か。合理的に考えすぎだろうか。食うことを忘れられたらと、これほど願ったことはない。

 

規律だ。食事さえも、精神的なものにしてしまおう。

手元に玄米7キロ、味噌と少々の野菜がある。一日一回の食事、玄米二合と野菜の入った味噌汁を毎日12時に食べることを規律と課そう。規律だから、好悪の感情よりも、一段上のものであり、規律を守ること、つまり決められたとおりに食べることが、精神修養となる。

飯に文句は言うまい。腹が減っていようがいまいが食う。うまかろうがまずかろうが、黙って食う。これで食うことを精神の味方にしてしまえば、肉体のわずらわしさから少しは解放されるだろう。

 

稚拙な思いつきであることは承知だ。だが、とりあえずやってみよう。精神の屈辱。肉体は無邪気に欲望しつづける。

 

【書物の海 #33】現代の考察, 執行草舟

人間は、人間であり続けようと思えば苦しみ続けなければならない。だからこそ、我々はお互いを労い合うのではないか。苦しみのないところに労いの心は生れない。我々は永遠に苦しみ続けなければならないだろう。それが人間として生きることではないか。人間であり続けることの代償ではないか。

 

2023.11.5

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